2011年02月18日
身近すぎて・・・『言えない』???
最近TVで流れている某自動車メーカーのCMで、個人的に大変気に入っているものがある。
登場人物は 「友人以上、恋人未満といった関係」 を連想させる雰囲気を持った若い男女
で、自動車をはさんで立ったまま、女性の側が携帯のメールを (男性に見えないように)
打つところからそのCMは始まる。そこで男性の方が (そわそわして?) 「誰にメールして
いるの」 と尋ねると、女性側が 「あなたよ。近くにいても、直接言えないこともあるの」 と
意味ありげに返答し、その文面を送信する。直後男性側が (ドキドキワクワクしながら?)
送信されたメールの画面を見ると、そこには 「 (ズボンの) チャックが開いてる」 という
文字が書かれていて、「ガーン!」 となるというオチである。
普段TVのCMを真剣に?観るということはあまりないし、特に録画した番組ではCMはすべ
てスキップしてしまうのだが、なぜかこのCMについてはそれが流されるたびに目を奪われ
てしまい、ほんわかと楽しい?気持ちになってしまうのが不思議である。
ところで、このCMに出てくる 「近くにいても直接言えないことがある」 というのはたしかに
その通りだが、日常の中ではむしろ 「近くにいる (身近な関係である) からこそ、直接言
えないことがそれなりあるのでは」 と、個人的には考えてしまう。
ここでいう 「近く」 というのは、たとえば親子間や夫婦間であり、「直接言えないこと」 と
いうのは、たとえば 「ありがとう」 や 「ごめんね」 などという日常ありふれた何気ない一
言である。もちろん相手が家族など最も身近な人であっても、感謝すべきことについては礼
を述べたり、謝罪すべきことについては詫びを入れる、しかもそれを 「相手の目を見て」、
「声に出して」 するのは人間としての常識や礼儀である。しかし、それがイザとなると身近
すぎることがジャマしてしまうようで、「照れくささ」 や 「気恥ずかしさ」 が前面に出て、実
際は 「なかなかことばとして出てこない」 ことはないだろうか。
その点、この 「メール」 という手段を用いると、「ありがとう」 とすんなり伝えられるどころ
か、夫婦間でそれが 「ありがとうございました」 となっても、全くといっていいほど違和感
・異和感がなくなるのである。それはいわゆる 「難しい年ごろの子ども」 と親との関係に
ついてもあてはまるだろう。
もっとも、かつてこの 「メール」 という手段がなかった時代でも、直接言いにくいことは短
い手紙やメモにして伝えるということはそれなりにあったハズではあるが。
昨今、いわゆる 「携帯依存症」 などということが社会問題化し、何かと批判を受けること
も多い、この 「携帯メール」 であるが、何事にも 「予期せぬところにその使い道がある」
ということを、一本のCMを通じて、改めて感じさせられた次第である。
ことばが話せるならば、飼い主に直接言いたい
ことが山ほどある!? こじろう
登場人物は 「友人以上、恋人未満といった関係」 を連想させる雰囲気を持った若い男女
で、自動車をはさんで立ったまま、女性の側が携帯のメールを (男性に見えないように)
打つところからそのCMは始まる。そこで男性の方が (そわそわして?) 「誰にメールして
いるの」 と尋ねると、女性側が 「あなたよ。近くにいても、直接言えないこともあるの」 と
意味ありげに返答し、その文面を送信する。直後男性側が (ドキドキワクワクしながら?)
送信されたメールの画面を見ると、そこには 「 (ズボンの) チャックが開いてる」 という
文字が書かれていて、「ガーン!」 となるというオチである。
普段TVのCMを真剣に?観るということはあまりないし、特に録画した番組ではCMはすべ
てスキップしてしまうのだが、なぜかこのCMについてはそれが流されるたびに目を奪われ
てしまい、ほんわかと楽しい?気持ちになってしまうのが不思議である。
ところで、このCMに出てくる 「近くにいても直接言えないことがある」 というのはたしかに
その通りだが、日常の中ではむしろ 「近くにいる (身近な関係である) からこそ、直接言
えないことがそれなりあるのでは」 と、個人的には考えてしまう。
ここでいう 「近く」 というのは、たとえば親子間や夫婦間であり、「直接言えないこと」 と
いうのは、たとえば 「ありがとう」 や 「ごめんね」 などという日常ありふれた何気ない一
言である。もちろん相手が家族など最も身近な人であっても、感謝すべきことについては礼
を述べたり、謝罪すべきことについては詫びを入れる、しかもそれを 「相手の目を見て」、
「声に出して」 するのは人間としての常識や礼儀である。しかし、それがイザとなると身近
すぎることがジャマしてしまうようで、「照れくささ」 や 「気恥ずかしさ」 が前面に出て、実
際は 「なかなかことばとして出てこない」 ことはないだろうか。
その点、この 「メール」 という手段を用いると、「ありがとう」 とすんなり伝えられるどころ
か、夫婦間でそれが 「ありがとうございました」 となっても、全くといっていいほど違和感
・異和感がなくなるのである。それはいわゆる 「難しい年ごろの子ども」 と親との関係に
ついてもあてはまるだろう。
もっとも、かつてこの 「メール」 という手段がなかった時代でも、直接言いにくいことは短
い手紙やメモにして伝えるということはそれなりにあったハズではあるが。
昨今、いわゆる 「携帯依存症」 などということが社会問題化し、何かと批判を受けること
も多い、この 「携帯メール」 であるが、何事にも 「予期せぬところにその使い道がある」
ということを、一本のCMを通じて、改めて感じさせられた次第である。
ことばが話せるならば、飼い主に直接言いたい
ことが山ほどある!? こじろう