2009年12月31日
『それなり』に見せる!!!
今日で2009年も終わりであるが、ここ数日のTVは恒例の年末特番ばかりで
ある。先日も書いたように、この経済状況のなか放送局も思うように製作費をか
けられないのか、番組作りに苦労している様子がよくわかる。
目立つのは“過去の映像”を“巧みに?”編集した番組である。さすがにゴール
デンタイムに過去の番組の完全な再放送を出すわけにはいかないだろうから、
オリジナルの部分を織り交ぜて「それなりに」見せてはいるが、よくよく検証?
してみるとその大半が過去の映像というものもある。もっとも自分のような年齢
になると懐かしい場面を観るほうがくだらないトークを聞かされるよりましだと
いうこともあるが。
TVに限らず最近は“本来のもの”に加えて、いわゆる「使いまわし」がうまく利用
されることが多い。関西の某老舗料亭や某製菓会社の“事件”もまだ記憶に新し
いほどである。もちろん「エコブーム」のさなか、まだ使えるものは使うということは
大切であるが、それなりの格式を有する企業や店舗ではやはり「それなりに見せ
る」ということにも“ある程度”の「節度」を考えてくれないと、こんな時代だからこそ
余計に“さびしい”気持ちになってしまうのである。
まだ使える「おもちゃ」は“とことん”
ボロボロになるまで使い、エコに貢献
している!? こじろう
ある。先日も書いたように、この経済状況のなか放送局も思うように製作費をか
けられないのか、番組作りに苦労している様子がよくわかる。
目立つのは“過去の映像”を“巧みに?”編集した番組である。さすがにゴール
デンタイムに過去の番組の完全な再放送を出すわけにはいかないだろうから、
オリジナルの部分を織り交ぜて「それなりに」見せてはいるが、よくよく検証?
してみるとその大半が過去の映像というものもある。もっとも自分のような年齢
になると懐かしい場面を観るほうがくだらないトークを聞かされるよりましだと
いうこともあるが。
TVに限らず最近は“本来のもの”に加えて、いわゆる「使いまわし」がうまく利用
されることが多い。関西の某老舗料亭や某製菓会社の“事件”もまだ記憶に新し
いほどである。もちろん「エコブーム」のさなか、まだ使えるものは使うということは
大切であるが、それなりの格式を有する企業や店舗ではやはり「それなりに見せ
る」ということにも“ある程度”の「節度」を考えてくれないと、こんな時代だからこそ
余計に“さびしい”気持ちになってしまうのである。
まだ使える「おもちゃ」は“とことん”
ボロボロになるまで使い、エコに貢献
している!? こじろう
2009年12月30日
『バカ親』の悪行!!!
毎日毎日、本当にいろいろまぬけな事件を起こす人がいるものだとある意味「感心」して
しまう。「開いた口が塞がらないまま」また一年が終わりそうである。
つい先ほど朝刊で読んだ事件である。「自分の幼少の娘のわいせつ画像をネットなどを
通じて販売していた母親たちが摘発された」というものであるが、こういったことを平気で
する『バカ親』は最近めずらしくない。今回の件で本当に“まぬけ”なのは当局の捜査を受
けることになるその経緯である。ある母親が「携帯サイトを通じて販売した画像の代金が
支払われない」と警察に相談したというのだ。結局そのことがきっかけで今回の“所業”が
露呈したのである。
「まぬけな奴だ」といってしまえばそれまでだが、こういう母親たちには自分のこどもを利用
した「悪行についての罪の意識」はまるでないということなのだろう。それどころか自らの非道
は「棚に上げて」(罪の意識がないのだからそれも“的外れ”だが)自分の権利(これも本来
完全な“論外”である)だけを堂々と主張している。まったく救いようがない。
こういう『バカ親』の極限みたいなのに育てられるこどもは本当に不幸である。少子化対策も
喫緊の問題だが、希少価値がますます高まっている「社会の最高の財産」をどうしようもない
『バカ親』に育てさせるという問題を先ず何とかしなくてはならない。
飼い主の自分に対する「育て方」に一応
「不満はない」フリをして、おやつを
せがむ!?
こじろう
しまう。「開いた口が塞がらないまま」また一年が終わりそうである。
つい先ほど朝刊で読んだ事件である。「自分の幼少の娘のわいせつ画像をネットなどを
通じて販売していた母親たちが摘発された」というものであるが、こういったことを平気で
する『バカ親』は最近めずらしくない。今回の件で本当に“まぬけ”なのは当局の捜査を受
けることになるその経緯である。ある母親が「携帯サイトを通じて販売した画像の代金が
支払われない」と警察に相談したというのだ。結局そのことがきっかけで今回の“所業”が
露呈したのである。
「まぬけな奴だ」といってしまえばそれまでだが、こういう母親たちには自分のこどもを利用
した「悪行についての罪の意識」はまるでないということなのだろう。それどころか自らの非道
は「棚に上げて」(罪の意識がないのだからそれも“的外れ”だが)自分の権利(これも本来
完全な“論外”である)だけを堂々と主張している。まったく救いようがない。
こういう『バカ親』の極限みたいなのに育てられるこどもは本当に不幸である。少子化対策も
喫緊の問題だが、希少価値がますます高まっている「社会の最高の財産」をどうしようもない
『バカ親』に育てさせるという問題を先ず何とかしなくてはならない。
飼い主の自分に対する「育て方」に一応
「不満はない」フリをして、おやつを
せがむ!?
2009年12月29日
『号泣』して『完敗』!!!
年齢を重ねるにつれ、「涙腺が緩んでくる」ということは以前から聞いていた。
それでも自分には「まだまだ先のこと」とタカをくくっていたが、昨日ある映画の
DVDを自宅で観ていたときに「涙ぐむ」どころでなく、「号泣」といってもいいよう
な大量の涙を流してしまうことがあった。
犬や猫を飼っている人は普通そうだと思うが、映画やドラマで感動的なシーンを動
物が演じると、自分のペットと重ねあわせてしまい完璧に感情移入してしまうこと
がある。
今回は自宅だったのでよかったが、一年ほど前、犬が主人公を演ずる映画を劇場で
観たときのこと。100人以上収容できるところに10人くらいしか観客がいなかった
にもかかわらず、クライマックスのところでとめどなく涙があふれ“大声”をあげて泣い
てしまったため、隣で一緒に観ていた家族には心底呆れられてしまい、「もう2度と一緒
に映画は観ない」と宣告されてしまったのである。
犬が出てくる映画やドラマでいかにも泣いてしまいそうなものを観るときに、「今日こそは
絶対に泣かないぞ」とか「所詮は作りものだから」といい聞かせ、心の準備をするように
しているつもりだが、登場する犬たちの迫真の名演技に、結局毎回『完敗』して『号泣』
してしまうなんとも情けない中年なのである。
「犬」が出てくる映画などを観たあとに
飼い主が急に「やさしくなる」ことを不審
がっている!? こじろう
それでも自分には「まだまだ先のこと」とタカをくくっていたが、昨日ある映画の
DVDを自宅で観ていたときに「涙ぐむ」どころでなく、「号泣」といってもいいよう
な大量の涙を流してしまうことがあった。
犬や猫を飼っている人は普通そうだと思うが、映画やドラマで感動的なシーンを動
物が演じると、自分のペットと重ねあわせてしまい完璧に感情移入してしまうこと
がある。
今回は自宅だったのでよかったが、一年ほど前、犬が主人公を演ずる映画を劇場で
観たときのこと。100人以上収容できるところに10人くらいしか観客がいなかった
にもかかわらず、クライマックスのところでとめどなく涙があふれ“大声”をあげて泣い
てしまったため、隣で一緒に観ていた家族には心底呆れられてしまい、「もう2度と一緒
に映画は観ない」と宣告されてしまったのである。
犬が出てくる映画やドラマでいかにも泣いてしまいそうなものを観るときに、「今日こそは
絶対に泣かないぞ」とか「所詮は作りものだから」といい聞かせ、心の準備をするように
しているつもりだが、登場する犬たちの迫真の名演技に、結局毎回『完敗』して『号泣』
してしまうなんとも情けない中年なのである。
「犬」が出てくる映画などを観たあとに
飼い主が急に「やさしくなる」ことを不審
がっている!? こじろう
2009年12月28日
『ヒヤリ』とする瞬間多発(その3)!!!
今日パソコン関係の小物を買いに、市内の某大型家電店に行くことがあった。駐車場
に車を置き、店の入り口に向かおうとして歩いていると、2~3歳くらいの女の子を二人
連れた父親とすれちがった。車が頻繁に通る通路であるが、驚いたのはその父親がこど
もたちと手をつないでいないことだった。車が近づいたときに「危ないよ」と一応声はかけ
ていたが、相手はまだ本当に小さなこどもである。こちらから見ていて、いつ車と接触
してもおかしくない光景に本当に「ヒヤヒヤ」せざるをえなかった。
またこれはいつものことであるが、自宅近くにある某大型スーパーの駐車場からその店
舗に向かうのに横切る道路でも、まだ幼稚園にもいってないようなこどもが親より先に
飛び出してきて、やはり「ヒヤり」とすることが多い。こちらは日常自分がハンドルを握っ
て通る道路だけに他人事ではなく、通過するときには念には念を入れて警戒する習慣に
なっているほどである。
普通に子育てをしたことのある人ならわかると思うが、小学校にあがるくらいまでのこ
どもの、特に外での行動というのは全く予測がつかないことが多い。広い公園の芝生の
ようなところで自動車や自転車が絶対入りこんでこないと確信があるとき以外は、しっ
かりこどもの手をつかんでいることが原則である。少なくとも自分の子どもが小さい頃
は必ずそうすることが、親として最低限の義務だと思っていた。
今日見たケースはたまたま父親だったが、一般的にはたとえば複数の親子で母親どうし
がおしゃべりに夢中になっているときにこどもと手をつないでいなかったり、眼を離して
いたりすることが多いような気がする。
もちろん運転する側もこどもがいるようなところでは十二分に気をつけなくてはならない
が、わが子が事故にあってから運転者の責任を追及しても遅いのである。そこに生ずる
“刑事上の責任”や“民事上の責任”以前に自分のこどもは自分で守るという「親(保護者)
の責任」を全うするように、小さなこどもを連れた親は強く自覚してほしいものである。
たまに「ノーリード」で散歩をしている
犬の飼い主をみると「あぶないなあ」と
心の中で思っている!?
こじろう
に車を置き、店の入り口に向かおうとして歩いていると、2~3歳くらいの女の子を二人
連れた父親とすれちがった。車が頻繁に通る通路であるが、驚いたのはその父親がこど
もたちと手をつないでいないことだった。車が近づいたときに「危ないよ」と一応声はかけ
ていたが、相手はまだ本当に小さなこどもである。こちらから見ていて、いつ車と接触
してもおかしくない光景に本当に「ヒヤヒヤ」せざるをえなかった。
またこれはいつものことであるが、自宅近くにある某大型スーパーの駐車場からその店
舗に向かうのに横切る道路でも、まだ幼稚園にもいってないようなこどもが親より先に
飛び出してきて、やはり「ヒヤり」とすることが多い。こちらは日常自分がハンドルを握っ
て通る道路だけに他人事ではなく、通過するときには念には念を入れて警戒する習慣に
なっているほどである。
普通に子育てをしたことのある人ならわかると思うが、小学校にあがるくらいまでのこ
どもの、特に外での行動というのは全く予測がつかないことが多い。広い公園の芝生の
ようなところで自動車や自転車が絶対入りこんでこないと確信があるとき以外は、しっ
かりこどもの手をつかんでいることが原則である。少なくとも自分の子どもが小さい頃
は必ずそうすることが、親として最低限の義務だと思っていた。
今日見たケースはたまたま父親だったが、一般的にはたとえば複数の親子で母親どうし
がおしゃべりに夢中になっているときにこどもと手をつないでいなかったり、眼を離して
いたりすることが多いような気がする。
もちろん運転する側もこどもがいるようなところでは十二分に気をつけなくてはならない
が、わが子が事故にあってから運転者の責任を追及しても遅いのである。そこに生ずる
“刑事上の責任”や“民事上の責任”以前に自分のこどもは自分で守るという「親(保護者)
の責任」を全うするように、小さなこどもを連れた親は強く自覚してほしいものである。
たまに「ノーリード」で散歩をしている
犬の飼い主をみると「あぶないなあ」と
心の中で思っている!?
2009年12月27日
『力ずく』で『強引』に解決!!!
こどもの頃、祖母(当時70代)が家族の誰かを呼ぶときにすぐその名前が浮かばず、
家族全員の名前を手当たり次第、片っ端から呼んでいる光景を目にすることがあった。
今は実家の母が同じような状況で、時には久々に訪ねてきた『こじろう』まで一緒に名
前を呼ばれ「キョトン」としていることもある。食事の時間でもないのに突然名前を呼ば
れ当惑させられて『こじろう』にとってもいい迷惑であろう。
自分はまだそこまでいっていないが、最近人名に限らずいろいろなことが頭に浮かん
でもそれをすぐに口にできないことや、直前に考えていたことを忘れてしまうことが多
くなってきた。
仕事中でもプライベートでもそうだが、何か用事を思いついて他の部屋に移動するよう
なときその移動中に用事をわすれてしまうことがよく起こる。またその人の顔や雰囲気
はイメージできるのにどうしても名前だけ出てこないことも頻繁になってきている。
そのようなときの対処法としては、祖母や母の方式でとにかく何か関係のありそうな名
前や事柄をとりあえず片っ端から挙げていくのが一番である。(というよりも「それしかな
い」といった方が正確かもしれないが)つまり『力ずく』で解決してしまうのである。
年齢を重ねて体力や知力が衰えてくるにつれ、なるべく少ない労力で効率よく諸問題を
解決するようになるのが一般的であるが、逆に「『力ずく』や『強引』という手段をとらざる
をえないこと」も増えてくるのである。人生はそう単純ではない!
「知育おもちゃ」を与えても”頭”を
使おうとせず、『力ずく』でとりくみ、
結局こわしてしまう!?
こじろう
家族全員の名前を手当たり次第、片っ端から呼んでいる光景を目にすることがあった。
今は実家の母が同じような状況で、時には久々に訪ねてきた『こじろう』まで一緒に名
前を呼ばれ「キョトン」としていることもある。食事の時間でもないのに突然名前を呼ば
れ当惑させられて『こじろう』にとってもいい迷惑であろう。
自分はまだそこまでいっていないが、最近人名に限らずいろいろなことが頭に浮かん
でもそれをすぐに口にできないことや、直前に考えていたことを忘れてしまうことが多
くなってきた。
仕事中でもプライベートでもそうだが、何か用事を思いついて他の部屋に移動するよう
なときその移動中に用事をわすれてしまうことがよく起こる。またその人の顔や雰囲気
はイメージできるのにどうしても名前だけ出てこないことも頻繁になってきている。
そのようなときの対処法としては、祖母や母の方式でとにかく何か関係のありそうな名
前や事柄をとりあえず片っ端から挙げていくのが一番である。(というよりも「それしかな
い」といった方が正確かもしれないが)つまり『力ずく』で解決してしまうのである。
年齢を重ねて体力や知力が衰えてくるにつれ、なるべく少ない労力で効率よく諸問題を
解決するようになるのが一般的であるが、逆に「『力ずく』や『強引』という手段をとらざる
をえないこと」も増えてくるのである。人生はそう単純ではない!
「知育おもちゃ」を与えても”頭”を
使おうとせず、『力ずく』でとりくみ、
結局こわしてしまう!?
2009年12月26日
便乗!「こんな不景気だからしょうがない???」
年末年始のTVの特番などというものはもともとあまり面白いものではなかったが、
ことに近年はその“質”の低下が顕著であるような気がする。(年末年始の特番に
限ったことでもなく通年のTV全般にいえることだが)
広告収入の落ち込みなどにより、製作費が削減されているという要因も大きいと思う
が、それだけで片付けるわけにもいかないだろう。
現在のような経済・社会情勢のなか、ほとんどの業種で企業あるいは担当者個人
レベルにおけるその業績や個人実績の”不振”に際し、「こんな不景気(経済状況)
だからしょうがない」という理由がささやかれるのも当然である。
しかし、なかにはそのこと(不景気など)にうまく「便乗」して自分(たち)の工夫や
努力の足りなさを”棚に上げている”部分もあるように思う。なぜなら同じ業種の中
でも伸びている企業もあれば、同じ企業の中でも実績を伸ばしている担当者もいる
からである。
経営者たるもの、本当に”景気のせい”なのか、あるいは不景気に「便乗」しての
“言い訳”にすぎないのか、をしっかり見極めて対処しなくてはならないだろう。
とはいいながらも、庶民の財布のひもを緩めるのは極めて難しい当節、まず何で
もとりあえずは「不景気のせいにしたい」のが現場で働く担当者の「人情」という
ものであろうか。
「こんな時代」にあっても自分の
おやつの質は落としてほしくない!?
こじろう
ことに近年はその“質”の低下が顕著であるような気がする。(年末年始の特番に
限ったことでもなく通年のTV全般にいえることだが)
広告収入の落ち込みなどにより、製作費が削減されているという要因も大きいと思う
が、それだけで片付けるわけにもいかないだろう。
現在のような経済・社会情勢のなか、ほとんどの業種で企業あるいは担当者個人
レベルにおけるその業績や個人実績の”不振”に際し、「こんな不景気(経済状況)
だからしょうがない」という理由がささやかれるのも当然である。
しかし、なかにはそのこと(不景気など)にうまく「便乗」して自分(たち)の工夫や
努力の足りなさを”棚に上げている”部分もあるように思う。なぜなら同じ業種の中
でも伸びている企業もあれば、同じ企業の中でも実績を伸ばしている担当者もいる
からである。
経営者たるもの、本当に”景気のせい”なのか、あるいは不景気に「便乗」しての
“言い訳”にすぎないのか、をしっかり見極めて対処しなくてはならないだろう。
とはいいながらも、庶民の財布のひもを緩めるのは極めて難しい当節、まず何で
もとりあえずは「不景気のせいにしたい」のが現場で働く担当者の「人情」という
ものであろうか。
「こんな時代」にあっても自分の
おやつの質は落としてほしくない!?
こじろう
2009年12月25日
『不祥事の温床・巣窟』の解体・廃止!!!
今年 (今月) をもってついに ”あの社会保険庁” が解体・廃止され、新年より 「日本年金
機構」 が発足する。
数年前から当時の長妻衆院議員 (現厚労相) を中心にその 「不祥事の温床・巣窟」 のと
てつもない実態が暴かれてきた。もちろん社保庁内部でもその三層構造 (厚労省からの出
向・社保庁採用・地方採用) それぞれの立場のなかで、まじめに仕事に取り組んできた人た
ちもたくさんいると思うが、たとえ一部でもその名を汚す者がいれば全体がそのように思われ
てしまうのが 「組織」 というものだ。
先進国における国家機関で今の時代に 「こんなことがありうるのか」 というようなことが 「こ
れでもか」 と次々に報道されるにつれ、最初は 「頭にくる」 程度だったものが 「あきれた」
に変わり、最後はもう 「あきらめた」 という心境になったのは自分だけだろうか?営利を追求
するわけではないので単純比較はできないが、純民間企業であればまさに ”身中の虫” に
食い荒らされて間違いなく 「自然崩壊」 していただろうというほどの 「ヒドさ」 だ。
また事務処理に関する究極の 「ずさんさ」 に加え、その仕事ぶりは完全にいわゆる 「上か
ら目線」 で対応する典型的 「お役所仕事」 でもあった。
今から数十年前、当時の国鉄や郵便局における窓口等の対応は (相手が子どもだと思って
バカにしている部分があったにせよ) 子ども心に 「ヒドイもの」 に映った。しかしその後民
営化のプロセスを経たとはいえ当時の体質とはだいぶ変わってきたような気がする。だからこ
そ以前より ”少数派” になった社保庁の 「お役所体質」 が著しく目立ったのかもしれない。
新 「日本年金機構」 も、単に 「看板をすげ替えただけ」 と思われないために今後相当の
覚悟をもって仕事に臨まなくてはならないだろう。今まで 「ずさん」 に 「ずさん」 を重ね続
けてきた年金記録問題一つとってみても全面解決するためには大変な労力を要するだろう。
が、それも本来はいわば 「あたりまえ」 のこと。一番の課題は低迷を続けている、ことに若
い世代における国民年金保険料の納付率向上であると個人的には考える。これから年金制
度を支える役割を担う若者層にはここ数年で年金全般に対する相当な 「不信感」 「不安感」
が植えつけられたことは明らか。年金そのものの土台や基盤がゆらいでいるのである。にも
かかわらずその上の部分で何をやってもいずれは崩壊するに違いない。
日本年金機構の初代理事長はインタビューで 「職員にとってやりがいや生きがいをもてるよ
うな組織にする」 と自ら述べている。いかなる仕事でもいえることだが、単なる自分の収入や
待遇のためでなく、その仕事をしていることに対する 「誇り」 が一人一人の職員になくては
いずれ社会保険庁の 「二の舞」 になることは避けられないだろう。
自分は「年金」に関わりがなく、
ホッとしている!?
こじろう
機構」 が発足する。
数年前から当時の長妻衆院議員 (現厚労相) を中心にその 「不祥事の温床・巣窟」 のと
てつもない実態が暴かれてきた。もちろん社保庁内部でもその三層構造 (厚労省からの出
向・社保庁採用・地方採用) それぞれの立場のなかで、まじめに仕事に取り組んできた人た
ちもたくさんいると思うが、たとえ一部でもその名を汚す者がいれば全体がそのように思われ
てしまうのが 「組織」 というものだ。
先進国における国家機関で今の時代に 「こんなことがありうるのか」 というようなことが 「こ
れでもか」 と次々に報道されるにつれ、最初は 「頭にくる」 程度だったものが 「あきれた」
に変わり、最後はもう 「あきらめた」 という心境になったのは自分だけだろうか?営利を追求
するわけではないので単純比較はできないが、純民間企業であればまさに ”身中の虫” に
食い荒らされて間違いなく 「自然崩壊」 していただろうというほどの 「ヒドさ」 だ。
また事務処理に関する究極の 「ずさんさ」 に加え、その仕事ぶりは完全にいわゆる 「上か
ら目線」 で対応する典型的 「お役所仕事」 でもあった。
今から数十年前、当時の国鉄や郵便局における窓口等の対応は (相手が子どもだと思って
バカにしている部分があったにせよ) 子ども心に 「ヒドイもの」 に映った。しかしその後民
営化のプロセスを経たとはいえ当時の体質とはだいぶ変わってきたような気がする。だからこ
そ以前より ”少数派” になった社保庁の 「お役所体質」 が著しく目立ったのかもしれない。
新 「日本年金機構」 も、単に 「看板をすげ替えただけ」 と思われないために今後相当の
覚悟をもって仕事に臨まなくてはならないだろう。今まで 「ずさん」 に 「ずさん」 を重ね続
けてきた年金記録問題一つとってみても全面解決するためには大変な労力を要するだろう。
が、それも本来はいわば 「あたりまえ」 のこと。一番の課題は低迷を続けている、ことに若
い世代における国民年金保険料の納付率向上であると個人的には考える。これから年金制
度を支える役割を担う若者層にはここ数年で年金全般に対する相当な 「不信感」 「不安感」
が植えつけられたことは明らか。年金そのものの土台や基盤がゆらいでいるのである。にも
かかわらずその上の部分で何をやってもいずれは崩壊するに違いない。
日本年金機構の初代理事長はインタビューで 「職員にとってやりがいや生きがいをもてるよ
うな組織にする」 と自ら述べている。いかなる仕事でもいえることだが、単なる自分の収入や
待遇のためでなく、その仕事をしていることに対する 「誇り」 が一人一人の職員になくては
いずれ社会保険庁の 「二の舞」 になることは避けられないだろう。
自分は「年金」に関わりがなく、
ホッとしている!?
2009年12月24日
店長態度最悪(その4)「恐れていた事態」
既に今まで3回書いてきた「店長態度最悪シリーズ」(10月14・10月17日・10月31日の
「こじろう117」参照)であるが、ここにきてついに”恐れていたこと”(別に部外者である自分が
恐れる必要はないのだが)が現実になってしまった。もっとも「その2」の時点に比べて「その3」
で店長の態度そのものがいくらか改善?されてきたようだ、ということについては変わりない。
困ったのは(自分が困るわけではないが)、最近その某大手スーパーマーケットのさまざまなと
ころで店員どうしの”ヒソヒソ話”が行われ、その中に「あの『鬼店長』がうるさいから」とか「あの
『鬼店長』本当に頭くるわ」などという声が聞こえるようになってきたことである。(自分ではまだ
直接聞いたことはないが、家族をはじめとして少なくとも5~6人の人が聞いている)
もちろん店員どうしの間で店長(トップ)がどのように呼ばれ、どういうことを言われようが、部外
者である自分らには全く関係のないことである。しかし買い物をしている客の前で”店のトップ”を
揶揄したり、不平不満めいたことを言うことで客を不快にさせる可能性はある(必ずしも”不快”
になるというよりも”面白い”と思う人もいるかもしれないが)。客に向かって直接言っているので
はないとはいえ、実際客の耳に入ってくれば同じことである。
サービスに変わりがなければ結構、といえばもちろんその通りであるが、「その店を利用する理由
の一つ」に「気持ちよく買い物をしたい」というものがあるのは一般的に否定できないであろう。
店員どうしのヒソヒソ話、ましてそれがその店舗を代表する人に対する批判めいたものであれば
何気なく聞こえたものであったとしても「気持ちのよい」ものではない。
以前書いてきたような店長の「客に挨拶もしない」ような当初の態度や、過去の店長と比較して
いかにも「自分は仕事をしています」と言いたげな“過剰”なアピールといったものが、店員に
客の前で「愚痴」をいわせるようになったかどうかまでは断言できない。
しかしいずれにせよ、今後も日常的にそのスーパーを利用していきたいと思っている固定客に
「店の行く末」を心配させる(余計なお世話だが)ような事態は避けてほしいものである。
自分のことに関する飼い主の「ヒソヒソ話」
を聞いていつも心配している!?こじろう
「こじろう117」参照)であるが、ここにきてついに”恐れていたこと”(別に部外者である自分が
恐れる必要はないのだが)が現実になってしまった。もっとも「その2」の時点に比べて「その3」
で店長の態度そのものがいくらか改善?されてきたようだ、ということについては変わりない。
困ったのは(自分が困るわけではないが)、最近その某大手スーパーマーケットのさまざまなと
ころで店員どうしの”ヒソヒソ話”が行われ、その中に「あの『鬼店長』がうるさいから」とか「あの
『鬼店長』本当に頭くるわ」などという声が聞こえるようになってきたことである。(自分ではまだ
直接聞いたことはないが、家族をはじめとして少なくとも5~6人の人が聞いている)
もちろん店員どうしの間で店長(トップ)がどのように呼ばれ、どういうことを言われようが、部外
者である自分らには全く関係のないことである。しかし買い物をしている客の前で”店のトップ”を
揶揄したり、不平不満めいたことを言うことで客を不快にさせる可能性はある(必ずしも”不快”
になるというよりも”面白い”と思う人もいるかもしれないが)。客に向かって直接言っているので
はないとはいえ、実際客の耳に入ってくれば同じことである。
サービスに変わりがなければ結構、といえばもちろんその通りであるが、「その店を利用する理由
の一つ」に「気持ちよく買い物をしたい」というものがあるのは一般的に否定できないであろう。
店員どうしのヒソヒソ話、ましてそれがその店舗を代表する人に対する批判めいたものであれば
何気なく聞こえたものであったとしても「気持ちのよい」ものではない。
以前書いてきたような店長の「客に挨拶もしない」ような当初の態度や、過去の店長と比較して
いかにも「自分は仕事をしています」と言いたげな“過剰”なアピールといったものが、店員に
客の前で「愚痴」をいわせるようになったかどうかまでは断言できない。
しかしいずれにせよ、今後も日常的にそのスーパーを利用していきたいと思っている固定客に
「店の行く末」を心配させる(余計なお世話だが)ような事態は避けてほしいものである。
自分のことに関する飼い主の「ヒソヒソ話」
を聞いていつも心配している!?こじろう
2009年12月23日
『△△(専門)バカ』になってはいけない!!!
昨日の某紙の読者投稿欄に極めて興味深いものが掲載されていた。先月25日政府の
事業仕分けによる科学研究予算の削減にノーベル賞受賞者らが疑義・批判を唱えたの
は記憶に新しいが、そのことに対してある高齢(79歳)の研究者の方が意見を述べら
れたものである。
投稿されたものの要旨は
1・科学に金がかかるのは事実だが、科学予算には不合理・ムダなものもありそれを
是正するのは当然である。
2・とかく科学者は独善的になりがちで、そこに甘えとおごりが生じやすい。税金を
使っているという意識もうすい。
3.予算が削られたことを嘆き批判する前に、研究計画の中身と自らの姿勢をもう一度
振り返ることが大切。
というようなものだった。
自分のような”ど素人”がいろいろいうのは僭越であるが、まさにご高説のとおりだと
思う。あの記者会見の光景をテレビで観て同様のことを感じた人は実は少なくなかった
のではないかと思うが、なんといっても冠たるノーベル賞受賞者の面々である。メディ
アの論調もどちらかといえば学者寄りのほうが多かったような気もするだけに、なにか
スッキリした気分になれた。
科学や教育の分野では、すぐ成果の出るものばかりではないだろうし、むしろ出ないも
のの方が多いこともよく理解できる。特にノーベル賞を受賞するような研究ともなれば
われわれには決して想像できないような過酷で孤独な研究との闘いがあったであろうこ
とも素直に認める。しかし、そのように”純粋”に科学を追及しようとする人たちの周り
にも必ずその「純粋さにつけ入って」私利をむさぼろうとする輩が出てくることも否定
できないことは歴史が証明しているといえるだろう。つまりどんなに純粋で清潔な(よう
にみえる)世界にも必ず「裏の部分」が存在し、そこに”ムダ”なものや場合によっては
積極的に排除しなければならないものもあるのだ。
あまりいいたくないことであるが、高名な科学者の人たちが「世の中のためである」という
大前提をもってしても、彼らの”好きな”研究に没頭することができたのには庶民の”血税”
がそれなりに使われてきたということは間違いないのである。
今から30年ほどさかのぼり、「東西冷戦」の真っ只中で当時のソ連のアフガニスタン侵攻に
抗議する西側諸国の一員であった日本がモスクワオリンピックをボイコットした際のこと。柔
道の無差別級で無敵を誇り金メダル確実といわれていた”Y”選手が、出場できなくなったこと
に自ら抗議した記者会見で、「純粋であるべきスポーツが政治に利用されるのは納得いかない」
と涙ながらに訴えたことがあった。その光景を見て同情した人たちも多かったようだが、常識人
の多くは、「ちょっと待てよ。その『政治』のおかげ(国民の税金のおかげ)であなたは今まで
好きな柔道に打ち込めてきたのだし、数多くの国際大会にも出場することができたのではないか」
との見解をもっていた。
天賦の才能に加え人並みはずれた苦労や努力や葛藤の末に、「歴史に名を残すような」偉大な
功績や業績を残してきた方々には心より敬意を表したい。しかしその背後にはそのような才能
をもてなかった圧倒的多数の人々の”目に見えない支え”があることを決して忘れないことが、
「△△(専門)バカ」(失礼!)と影で揶揄されないための最高の方策であると思う。
自分にどの程度の才能があるのか
あまり関心のない!? こじろう
事業仕分けによる科学研究予算の削減にノーベル賞受賞者らが疑義・批判を唱えたの
は記憶に新しいが、そのことに対してある高齢(79歳)の研究者の方が意見を述べら
れたものである。
投稿されたものの要旨は
1・科学に金がかかるのは事実だが、科学予算には不合理・ムダなものもありそれを
是正するのは当然である。
2・とかく科学者は独善的になりがちで、そこに甘えとおごりが生じやすい。税金を
使っているという意識もうすい。
3.予算が削られたことを嘆き批判する前に、研究計画の中身と自らの姿勢をもう一度
振り返ることが大切。
というようなものだった。
自分のような”ど素人”がいろいろいうのは僭越であるが、まさにご高説のとおりだと
思う。あの記者会見の光景をテレビで観て同様のことを感じた人は実は少なくなかった
のではないかと思うが、なんといっても冠たるノーベル賞受賞者の面々である。メディ
アの論調もどちらかといえば学者寄りのほうが多かったような気もするだけに、なにか
スッキリした気分になれた。
科学や教育の分野では、すぐ成果の出るものばかりではないだろうし、むしろ出ないも
のの方が多いこともよく理解できる。特にノーベル賞を受賞するような研究ともなれば
われわれには決して想像できないような過酷で孤独な研究との闘いがあったであろうこ
とも素直に認める。しかし、そのように”純粋”に科学を追及しようとする人たちの周り
にも必ずその「純粋さにつけ入って」私利をむさぼろうとする輩が出てくることも否定
できないことは歴史が証明しているといえるだろう。つまりどんなに純粋で清潔な(よう
にみえる)世界にも必ず「裏の部分」が存在し、そこに”ムダ”なものや場合によっては
積極的に排除しなければならないものもあるのだ。
あまりいいたくないことであるが、高名な科学者の人たちが「世の中のためである」という
大前提をもってしても、彼らの”好きな”研究に没頭することができたのには庶民の”血税”
がそれなりに使われてきたということは間違いないのである。
今から30年ほどさかのぼり、「東西冷戦」の真っ只中で当時のソ連のアフガニスタン侵攻に
抗議する西側諸国の一員であった日本がモスクワオリンピックをボイコットした際のこと。柔
道の無差別級で無敵を誇り金メダル確実といわれていた”Y”選手が、出場できなくなったこと
に自ら抗議した記者会見で、「純粋であるべきスポーツが政治に利用されるのは納得いかない」
と涙ながらに訴えたことがあった。その光景を見て同情した人たちも多かったようだが、常識人
の多くは、「ちょっと待てよ。その『政治』のおかげ(国民の税金のおかげ)であなたは今まで
好きな柔道に打ち込めてきたのだし、数多くの国際大会にも出場することができたのではないか」
との見解をもっていた。
天賦の才能に加え人並みはずれた苦労や努力や葛藤の末に、「歴史に名を残すような」偉大な
功績や業績を残してきた方々には心より敬意を表したい。しかしその背後にはそのような才能
をもてなかった圧倒的多数の人々の”目に見えない支え”があることを決して忘れないことが、
「△△(専門)バカ」(失礼!)と影で揶揄されないための最高の方策であると思う。
自分にどの程度の才能があるのか
あまり関心のない!? こじろう
2009年12月22日
最も『非効率』な仕事???
今日、久しぶりに「例の」メールが届いた。「重要なお知らせ」というタイトルで、「総合情報
サイトから無料期間中に退会処理がされてないので登録料金が延滞になっており、民事裁判
を起こすので至急連絡するように」という趣旨のものである。
前回届いたときはすぐ削除したのでいつごろだったか覚えていないが、確かに一時期この手の
ものの被害に遭った(遭いかけた)人が結構出たという「”例の”あれ」である。
当局やメディアの啓蒙により、もうこの種の手口は世間に知り尽くされた感もあると思っていた
のだが、それでも同じメールが届くということはまだ「ひっかかってしまう」あるいは「ひっかかり
そうな」人がそれなりにいるということなのだろう。
前回はただの”無視”で通したが今回は市民の”良識”?に基いた”義務”を果たし、N中央署に
情報提供の電話をしてみた。担当の係の人によれば、今でもこの手のメールや文書をはじめて
もらった人(特に中高年)は動揺し、とりあえず相手の連絡先に電話したり返信したりしてしま
い、恫喝されおびえて相手の言うとおりにしてしまうパターン、また何かしら「身に覚え」があり
あわてて連絡してしまうパターンなどがあるという。
だれでも自分だけは「だまされない」「ひっかからない」と普段は思っていても、イザとなると
”自信”をもって対処することは難しいのであろう。(11月8日の「こじろう117」参照)
逆に「だまそうとする側」も相変わらず「非効率な仕事?」をするものだと思う。「下手な鉄砲も
数撃てば当たる」ということで、とりあえずやみくもに不特定多数の人にメールや文書を送り続け
ているのだろうが、彼らにとって運良く『カモ』になる確率はいったいどのくらいのものなのだろ
うか?この手の詐欺では一度に何百万円も何千万円もが入ってくるわけではないだろう(あまり
高額な架空請求をしても払えないものは払えない)から、ある意味相当に効率の悪い仕事?とも
いえる。
お金を手に入れることでなく、『カモ』を見つけることそのものに主眼を置く、つまり趣味や道楽
としてこういうことをし続けるのならまだしも、そうでないとしたら普通の”まとも”な仕事をした
方がよほど効率よくお金を得られるのではないかと思われる。
一度そういう世界に足を踏み入れた以上もうそこから一切抜け出せないとしたら、自業自得で
あるにせよ大変にかわいそうである。若いときは気づかなくても、それなりの年齢になり体力
も気力も衰えたなかで自分の人生を振り返ることが一度くらいあるとしたら、本当にさびしい
思いをすることになるだろう。
もっとも現在その”渦中”にあって人をだますことに”夢中”になっている人間に何をいってもムダ
だとはわかっているが。
効率よく食料を手に入れようとして日々、
研究を怠ることのない!? こじろう
サイトから無料期間中に退会処理がされてないので登録料金が延滞になっており、民事裁判
を起こすので至急連絡するように」という趣旨のものである。
前回届いたときはすぐ削除したのでいつごろだったか覚えていないが、確かに一時期この手の
ものの被害に遭った(遭いかけた)人が結構出たという「”例の”あれ」である。
当局やメディアの啓蒙により、もうこの種の手口は世間に知り尽くされた感もあると思っていた
のだが、それでも同じメールが届くということはまだ「ひっかかってしまう」あるいは「ひっかかり
そうな」人がそれなりにいるということなのだろう。
前回はただの”無視”で通したが今回は市民の”良識”?に基いた”義務”を果たし、N中央署に
情報提供の電話をしてみた。担当の係の人によれば、今でもこの手のメールや文書をはじめて
もらった人(特に中高年)は動揺し、とりあえず相手の連絡先に電話したり返信したりしてしま
い、恫喝されおびえて相手の言うとおりにしてしまうパターン、また何かしら「身に覚え」があり
あわてて連絡してしまうパターンなどがあるという。
だれでも自分だけは「だまされない」「ひっかからない」と普段は思っていても、イザとなると
”自信”をもって対処することは難しいのであろう。(11月8日の「こじろう117」参照)
逆に「だまそうとする側」も相変わらず「非効率な仕事?」をするものだと思う。「下手な鉄砲も
数撃てば当たる」ということで、とりあえずやみくもに不特定多数の人にメールや文書を送り続け
ているのだろうが、彼らにとって運良く『カモ』になる確率はいったいどのくらいのものなのだろ
うか?この手の詐欺では一度に何百万円も何千万円もが入ってくるわけではないだろう(あまり
高額な架空請求をしても払えないものは払えない)から、ある意味相当に効率の悪い仕事?とも
いえる。
お金を手に入れることでなく、『カモ』を見つけることそのものに主眼を置く、つまり趣味や道楽
としてこういうことをし続けるのならまだしも、そうでないとしたら普通の”まとも”な仕事をした
方がよほど効率よくお金を得られるのではないかと思われる。
一度そういう世界に足を踏み入れた以上もうそこから一切抜け出せないとしたら、自業自得で
あるにせよ大変にかわいそうである。若いときは気づかなくても、それなりの年齢になり体力
も気力も衰えたなかで自分の人生を振り返ることが一度くらいあるとしたら、本当にさびしい
思いをすることになるだろう。
もっとも現在その”渦中”にあって人をだますことに”夢中”になっている人間に何をいってもムダ
だとはわかっているが。
効率よく食料を手に入れようとして日々、
研究を怠ることのない!? こじろう
2009年12月21日
「社交辞令に『乗っかってしまい』・・・」
『社交辞令』として相手に言ったことを「まとも」に受け止められると、「戸惑ってしまう」こと
がよくある。
たとえば若い人を励まそうとして「私も若いときはいろいろと失敗しましてねえ」などと言
ったときに(実際数えきれないほどの”失敗”は確かにしているとはいえ)「ああ、そうなん
ですか。そうは見えないのにいろいろと苦労されたんですね」と「真顔」で返されると、そこか
ら話は続かなくなってしまう。
逆に自分の子どもとたいして年齢の違わない人に「いつも△△さんからはいろいろと勉強させて
いただいているんですよ」と言ったときに「いやあ、それほどでもないですよ」とでも言われる
と、もはや「笑い話」の領域である。
若い時分には、とかく人の話を「まとも」に受けとめてしまうもので、自分もその例外ではな
かった。それこそが「若さの特権」ともいえるだろう。しかし年齢を重ねるにつれ、実社会の
「ドロドロ」としたものにまみれてくると、特に相手に「ニコニコ」されながら美辞麗句を
並べられたりするようなときは「あれ?何か(裏に)あるぞ!」と気づいて”警戒モード”全開
になるものだ。
と、このように”冷静に”かつ”えらそうに”分析しながらも、昨日不覚にもなんと自分自身が
社交辞令的な美辞麗句にしっかり「乗っかってしまった」のである。
先日普段お世話になっている方にお礼としてお菓子を差し上げることがあったのだが、その
方と10日程ぶりに会ったときのことである。
その方に、「このまえ『こじろうさん』からいただいたお菓子、今まで食べた中で一番おいしかった
んですよ。いつも甘いものなどまったく食べない子どもたちも『おいしい、おいしい』と”取り合い”
のケンカになっちゃったんですよ」といわれると、ついうれしさのあまり(内心で)舞い上がってしま
い「そうなんですか」と満面の笑みを返してしまったのである。相手の方にはその表情を読み
とられ「しめた」と思われたことだろう。漠然とした言い方でなく、「具体的に」言われたことが
決め手?になったのかもしれない。
結局、人間いくつになっても「ほめられる」ことに快感をおぼえる習性は抜けないのであろう。
飼い主にいくらほめられても「その裏」に
あるものを敏感に嗅ぎ取り、新しい芸を
おぼえようとしない!? こじろう
がよくある。
たとえば若い人を励まそうとして「私も若いときはいろいろと失敗しましてねえ」などと言
ったときに(実際数えきれないほどの”失敗”は確かにしているとはいえ)「ああ、そうなん
ですか。そうは見えないのにいろいろと苦労されたんですね」と「真顔」で返されると、そこか
ら話は続かなくなってしまう。
逆に自分の子どもとたいして年齢の違わない人に「いつも△△さんからはいろいろと勉強させて
いただいているんですよ」と言ったときに「いやあ、それほどでもないですよ」とでも言われる
と、もはや「笑い話」の領域である。
若い時分には、とかく人の話を「まとも」に受けとめてしまうもので、自分もその例外ではな
かった。それこそが「若さの特権」ともいえるだろう。しかし年齢を重ねるにつれ、実社会の
「ドロドロ」としたものにまみれてくると、特に相手に「ニコニコ」されながら美辞麗句を
並べられたりするようなときは「あれ?何か(裏に)あるぞ!」と気づいて”警戒モード”全開
になるものだ。
と、このように”冷静に”かつ”えらそうに”分析しながらも、昨日不覚にもなんと自分自身が
社交辞令的な美辞麗句にしっかり「乗っかってしまった」のである。
先日普段お世話になっている方にお礼としてお菓子を差し上げることがあったのだが、その
方と10日程ぶりに会ったときのことである。
その方に、「このまえ『こじろうさん』からいただいたお菓子、今まで食べた中で一番おいしかった
んですよ。いつも甘いものなどまったく食べない子どもたちも『おいしい、おいしい』と”取り合い”
のケンカになっちゃったんですよ」といわれると、ついうれしさのあまり(内心で)舞い上がってしま
い「そうなんですか」と満面の笑みを返してしまったのである。相手の方にはその表情を読み
とられ「しめた」と思われたことだろう。漠然とした言い方でなく、「具体的に」言われたことが
決め手?になったのかもしれない。
結局、人間いくつになっても「ほめられる」ことに快感をおぼえる習性は抜けないのであろう。
飼い主にいくらほめられても「その裏」に
あるものを敏感に嗅ぎ取り、新しい芸を
おぼえようとしない!? こじろう
2009年12月20日
『ヒヤリ!』とする瞬間多発(その2)!!!
今シーズン初の大雪に見舞われた19日の朝のこと、幹線道路でもまだたくさんの
雪が残り凍結している部分もあったが、大変困った自動車に前を走られてしまった。
ルーフの上に15センチほどの雪を積んだままなのはまだいいとして、自分の視界
を確保(ウインドウ関係の雪だけは落としてあった)しただけで、ブレーキランプや
ウインカーの雪をまったく払ってなかったのである。そのくせ急に減速したり、車線
変更をしたりしそうなため、通常の雪道のさらに2倍程度の車間距離を確保せざるを
えなかったほどである。運転者本人はいつもと同じようにブレーキをかけ、ウインカー
も出しているつもりだろうが、後続車をはじめとする周囲の車からそのウインカーなど
が見えなければ何も意味がないのである。
さらにそのような道路状況でありながら、普段と同じようなスピードで走る自動車も
何台も見かけた。直進しているときは一見何も問題ないようであっても、何か突発的
にブレーキを踏んだりステアリングを切らなければならないときに、雪道や凍結路で
は冬用タイヤといえども用をなさないことが多い。自分の車だけで自損事故を起こす
ならまだしも、周辺の自動車を巻き込んだ大惨事になったらどう責任をとれるのか?
雪道や凍結路では特に、万一予期せぬ事態になっても回避できるような態勢で運転し
なくてはならないことは教習所でも学習していることである。以前高速道路の運転に
関しても書いたことであるが、(11月23日の『こじろう117』を参照)ひとたびステア
リングを握って走り出すということは「走る凶器」を手繰っていることであり、自分だけ
でなく同乗者や周囲の自動車や歩行者を巻き込む大変な危険と常に隣りあわせに
なっているのである。他人に迷惑をかけるようなことをしでかしたあとに泣きながら
「お詫び」しても、取り返しがつかないこともあるのだ。
よく「一度くらいは痛い目に遭わないとわからない」ともいわれるが、たとえば自分
の不注意で詐欺に遭うような場面ではそれはピタリとはまる。(11月8日の「こじろう
117」参照)しかし、自業自得では済まない、つまり周囲の人々に大きな迷惑がかか
ることについてはたとえ「一度でも」猶予はないのである。
相変わらず携帯電話で話したりメールを打ったりしながら運転している人は後を絶た
ない。また助手席の人の方を向いたまま話に夢中になって運転している人もいる(これ
は比較的中年以降と思われる女性に多い?)。まさに外から見ていて『ヒヤリ』とする
瞬間である。しつこいようだが、自動車の運転に際しては「何かあってからでは本当に
おそい」のである。
一度飼い主に「痛い目に遭わされた」”爪切り”
のことが忘れられずに、刃物を見ただけで一目
散に逃げ出す!? こじろう
雪が残り凍結している部分もあったが、大変困った自動車に前を走られてしまった。
ルーフの上に15センチほどの雪を積んだままなのはまだいいとして、自分の視界
を確保(ウインドウ関係の雪だけは落としてあった)しただけで、ブレーキランプや
ウインカーの雪をまったく払ってなかったのである。そのくせ急に減速したり、車線
変更をしたりしそうなため、通常の雪道のさらに2倍程度の車間距離を確保せざるを
えなかったほどである。運転者本人はいつもと同じようにブレーキをかけ、ウインカー
も出しているつもりだろうが、後続車をはじめとする周囲の車からそのウインカーなど
が見えなければ何も意味がないのである。
さらにそのような道路状況でありながら、普段と同じようなスピードで走る自動車も
何台も見かけた。直進しているときは一見何も問題ないようであっても、何か突発的
にブレーキを踏んだりステアリングを切らなければならないときに、雪道や凍結路で
は冬用タイヤといえども用をなさないことが多い。自分の車だけで自損事故を起こす
ならまだしも、周辺の自動車を巻き込んだ大惨事になったらどう責任をとれるのか?
雪道や凍結路では特に、万一予期せぬ事態になっても回避できるような態勢で運転し
なくてはならないことは教習所でも学習していることである。以前高速道路の運転に
関しても書いたことであるが、(11月23日の『こじろう117』を参照)ひとたびステア
リングを握って走り出すということは「走る凶器」を手繰っていることであり、自分だけ
でなく同乗者や周囲の自動車や歩行者を巻き込む大変な危険と常に隣りあわせに
なっているのである。他人に迷惑をかけるようなことをしでかしたあとに泣きながら
「お詫び」しても、取り返しがつかないこともあるのだ。
よく「一度くらいは痛い目に遭わないとわからない」ともいわれるが、たとえば自分
の不注意で詐欺に遭うような場面ではそれはピタリとはまる。(11月8日の「こじろう
117」参照)しかし、自業自得では済まない、つまり周囲の人々に大きな迷惑がかか
ることについてはたとえ「一度でも」猶予はないのである。
相変わらず携帯電話で話したりメールを打ったりしながら運転している人は後を絶た
ない。また助手席の人の方を向いたまま話に夢中になって運転している人もいる(これ
は比較的中年以降と思われる女性に多い?)。まさに外から見ていて『ヒヤリ』とする
瞬間である。しつこいようだが、自動車の運転に際しては「何かあってからでは本当に
おそい」のである。
一度飼い主に「痛い目に遭わされた」”爪切り”
のことが忘れられずに、刃物を見ただけで一目
散に逃げ出す!? こじろう
2009年12月19日
「風が吹けば桶屋が・・・」!!!
普段「出身学部は?」と人に訊かれることほど“困る”ことはない。学生時代いろいろと
学業以外の社会勉強?が忙しかった?自分にとって専攻したはずの『経済学』についての
知識はおそらく中3生の公民の教科書に載っている程度のものしかないだろう、という妙
な?“自信”があるほどだ。
そんな自分にとってわからない経済関係用語のひとつに『経済効果』というものがある。たと
えば関西の名門プロ球団である“T”が優勝したりしたときに必ず取りざたされる「あれ」であ
る。最近では、「史上最年少の賞金王」誕生の際の『経済効果』が話題になっていた。
ものによっては何百億円とか何千億円とかという景気のよいこともいわれるが、はたしてこの
『経済効果』というもの、いったいどこまで“信用”していいものだろうか?
先日読んだ某週刊誌によれば『経済効果』と一口にいっても、それには「直接効果」のほかに
「一次波及効果」さらには「二次波及効果」というものがあり、それらの合算になるという。
「二次波及効果」ともなると、たとえば“T”が優勝して歓喜したファンが飲む酒の量がいつも
より増えた分の酒代が加算される、といったことならまだしも、それにより売り上げが伸びて
よろこんだ酒屋の家族が出かける家族旅行の費用までも加算されてくるというようだ。なんと
なく「風が吹けば桶屋がもうかる」的なところも感じざるをえない。
まあ何はともあれ、現在のように経済が停滞している世の中では「景気の悪い話」よりも「景気
のよい話」の方が「元気づけられる」のも確かではある。その『信憑性』をうんぬんし、細かく
追及するのは「野暮」ということかもしれない。
自分が「飼われていること」についての「飼い主宅
の経済効果」を試算されることを恐れている!?
こじろう
学業以外の社会勉強?が忙しかった?自分にとって専攻したはずの『経済学』についての
知識はおそらく中3生の公民の教科書に載っている程度のものしかないだろう、という妙
な?“自信”があるほどだ。
そんな自分にとってわからない経済関係用語のひとつに『経済効果』というものがある。たと
えば関西の名門プロ球団である“T”が優勝したりしたときに必ず取りざたされる「あれ」であ
る。最近では、「史上最年少の賞金王」誕生の際の『経済効果』が話題になっていた。
ものによっては何百億円とか何千億円とかという景気のよいこともいわれるが、はたしてこの
『経済効果』というもの、いったいどこまで“信用”していいものだろうか?
先日読んだ某週刊誌によれば『経済効果』と一口にいっても、それには「直接効果」のほかに
「一次波及効果」さらには「二次波及効果」というものがあり、それらの合算になるという。
「二次波及効果」ともなると、たとえば“T”が優勝して歓喜したファンが飲む酒の量がいつも
より増えた分の酒代が加算される、といったことならまだしも、それにより売り上げが伸びて
よろこんだ酒屋の家族が出かける家族旅行の費用までも加算されてくるというようだ。なんと
なく「風が吹けば桶屋がもうかる」的なところも感じざるをえない。
まあ何はともあれ、現在のように経済が停滞している世の中では「景気の悪い話」よりも「景気
のよい話」の方が「元気づけられる」のも確かではある。その『信憑性』をうんぬんし、細かく
追及するのは「野暮」ということかもしれない。
自分が「飼われていること」についての「飼い主宅
の経済効果」を試算されることを恐れている!?
こじろう
2009年12月18日
『いい人』の限界???
「政権交代」から早くも3ヶ月が経過した。大きな期待を背負い高支持率でスタートした
現政権であるが、首相自身の偽装献金問題、景気の低迷、米軍普天間飛行場移設
問題に加えて、連立相手さらには閣内での不協和音も聞こえはじめる始末で、気の早い
メディアからは早くも年明け早々の「退陣」までささやかれるようになってきた。
普天間問題に象徴されるのは、政府(首相)の「迷走」ともいわれる決断の先送りで
ある。以前も書いたように(12月8日の「こじろう117」を参照)この問題は政府と
米軍・沖縄(県民)・社民党の3者の立場や思惑が複雑に絡み合っているため、すべて
が満足する解決がきわめて困難なのはよく理解できる。しかし、そのような場面でも
考えうる最善の「落としどころ」を時期を逸することなく作り出すのが政府の本来業務
である。いつまでもすべての方面に「いい顔」をしたり「いい人」でいることはできない
のである。
日常生活の中でも、ある意味だれでもなるべく「いい顔」をしたい、「いい人」でいたいもの
である。しかし実社会で人を評価するときに「あの人はいい人(柄)なんだけどなあ」という
ことを聞く場面は少なくない。庶民レベルでも利害は複雑に絡み合うのが普通であるため
誰に対しても「いい顔」をしたり「いい人」でいるのには限界がある。
たとえ反発を買うことになっても「言うべきことは言う」「するべきことはする」ということ
ができないと、たとえば組織や企業で人の上に立つことはできないだろう。
もちろん”歯に衣着せぬ”調子で何でも「ズケズケ」と調和も考えずにものを言うのは論外で
ある。しかし必要時には「『心を鬼』にして『憎まれ役を買って』でも『いい人』から脱すること
ができるかどうか」が、指導的立場の人間の「第一条件」といえるかもしれない。
『いい人』ならぬ『いい犬』でいることに
疲れてしまい、ときどき”開き直る”こと
もある!? こじろう
現政権であるが、首相自身の偽装献金問題、景気の低迷、米軍普天間飛行場移設
問題に加えて、連立相手さらには閣内での不協和音も聞こえはじめる始末で、気の早い
メディアからは早くも年明け早々の「退陣」までささやかれるようになってきた。
普天間問題に象徴されるのは、政府(首相)の「迷走」ともいわれる決断の先送りで
ある。以前も書いたように(12月8日の「こじろう117」を参照)この問題は政府と
米軍・沖縄(県民)・社民党の3者の立場や思惑が複雑に絡み合っているため、すべて
が満足する解決がきわめて困難なのはよく理解できる。しかし、そのような場面でも
考えうる最善の「落としどころ」を時期を逸することなく作り出すのが政府の本来業務
である。いつまでもすべての方面に「いい顔」をしたり「いい人」でいることはできない
のである。
日常生活の中でも、ある意味だれでもなるべく「いい顔」をしたい、「いい人」でいたいもの
である。しかし実社会で人を評価するときに「あの人はいい人(柄)なんだけどなあ」という
ことを聞く場面は少なくない。庶民レベルでも利害は複雑に絡み合うのが普通であるため
誰に対しても「いい顔」をしたり「いい人」でいるのには限界がある。
たとえ反発を買うことになっても「言うべきことは言う」「するべきことはする」ということ
ができないと、たとえば組織や企業で人の上に立つことはできないだろう。
もちろん”歯に衣着せぬ”調子で何でも「ズケズケ」と調和も考えずにものを言うのは論外で
ある。しかし必要時には「『心を鬼』にして『憎まれ役を買って』でも『いい人』から脱すること
ができるかどうか」が、指導的立場の人間の「第一条件」といえるかもしれない。
『いい人』ならぬ『いい犬』でいることに
疲れてしまい、ときどき”開き直る”こと
もある!? こじろう
2009年12月17日
『毒にも薬にも・・・』が一番???
師走も既に後半に入り、さまざまなところで『今年を振り返る』という趣旨の
企画を目にするようになった。
数年前から特に”芸人”の世界などでいわゆる「一発屋」という呼び方を聞く
ようになったが、近頃では「かつての一発屋」がそれ自体をネタにして「復権」
を果たす風潮すら見受けられる。
今年も芸人に限らず「一発屋予備軍」がたくさん登場したようである。
強烈な個性を披露するものや見た目のインパクトが強いものには、周りが
即注目し一時的に絶賛されることすらあるが、一方で飽きられたり、場合
によっては”見捨てられる”スピードが速くなる可能性も高い。
逆に最初の印象はうすく”大活躍”はなくても、なんだかんだと長く続いてそこ
に踏みとどまる人もいるものだ。
いざ「ここは決断のとき」ということで『勝負に出る』ことは誰でも一度くらいは
あるもので、また立場上そういった決断を頻繁に下さざるをえない人もいるだろう
が、たいていは平凡に「可もなく不可もなく」という生き方のほうが長続き(長生き)
する”コツ”であるかもしれない。
時間帯の関係で実際に観る機会はほとんどないが、某民放のニュース番組でそれ
なりに長い間コメンテーターを続けている「元警視庁捜査一課長」はすばらしい!
素人が誰でも言えるようなことでも、さも専門家(風)にコメントする技術もさる
ことながら、「毒にも薬にもならない」ことをさりげなく述べることで「見ている人
の気持ちを和やかにし、結果的に頬を緩ませてしまう」その力量には”畏敬の念”す
らおぼえるほどである。
毎日を「淡々と平凡に」おくることにこそ
”生きがい”を感じている!?
こじろう
企画を目にするようになった。
数年前から特に”芸人”の世界などでいわゆる「一発屋」という呼び方を聞く
ようになったが、近頃では「かつての一発屋」がそれ自体をネタにして「復権」
を果たす風潮すら見受けられる。
今年も芸人に限らず「一発屋予備軍」がたくさん登場したようである。
強烈な個性を披露するものや見た目のインパクトが強いものには、周りが
即注目し一時的に絶賛されることすらあるが、一方で飽きられたり、場合
によっては”見捨てられる”スピードが速くなる可能性も高い。
逆に最初の印象はうすく”大活躍”はなくても、なんだかんだと長く続いてそこ
に踏みとどまる人もいるものだ。
いざ「ここは決断のとき」ということで『勝負に出る』ことは誰でも一度くらいは
あるもので、また立場上そういった決断を頻繁に下さざるをえない人もいるだろう
が、たいていは平凡に「可もなく不可もなく」という生き方のほうが長続き(長生き)
する”コツ”であるかもしれない。
時間帯の関係で実際に観る機会はほとんどないが、某民放のニュース番組でそれ
なりに長い間コメンテーターを続けている「元警視庁捜査一課長」はすばらしい!
素人が誰でも言えるようなことでも、さも専門家(風)にコメントする技術もさる
ことながら、「毒にも薬にもならない」ことをさりげなく述べることで「見ている人
の気持ちを和やかにし、結果的に頬を緩ませてしまう」その力量には”畏敬の念”す
らおぼえるほどである。
毎日を「淡々と平凡に」おくることにこそ
”生きがい”を感じている!?
2009年12月16日
もはや”自分自身”の責任か???
「開いた口が塞がらない」とはこういうことをいうのだろうか?既に
「怒りを通り越して」(その1およびその2)で書いたことのある某
業者の「ヨシダ氏」から、今朝仕事中に「なんとまた」電話がかかって
きたのである。(11月21日と11月28日の「こじろう117」参照)
「なんとまた」というのも(もう思い出したくもないのだが)前2回とも
”ハッキリとお断り”(もちろん言葉遣いを含めて丁重にしたつもりであ
るが、内容的には『拒絶』のつもりである)していたからである。
前回、前々回と異なるのは今回は特に午前の早い”より忙しい時間帯”
(もっとも彼に相手の”忙しい時間帯”などについての認識は微塵もな
いと思うが)であることと、「マンション経営の案内」が「年金運用商品
の案内」になっていたことだった。
今までも書いたように、電話で「営業」することは基本的に自由であり、
そのこと自体について(少なくともこの「ヨシダ氏」からの1回目の電
話について)何かいうことはない。しかし1回目の電話では「一切興味
がない」旨を、2回目の電話では「もう電話しないでほしい」旨を”明
確に”かつ”毅然と”かつ”丁重に”既に伝えていたとなれば話は別で
ある。
3回目となればもう「間違ってかけた」では済まされず、それに今回は
特にはじめから人を”バカ”にしたような口調だったので、またもやた
まりかねて「あなたには人に『迷惑をかけている』ということの意味が
わからないのですか。(以前に『迷惑』であることは伝達済)上司と代
わってください」というと、「今、上司は手が離せません」と返してき
たので、「こちらこそ手が離せない状況で電話にでているんですよ。あ
とで上司に電話するので番号を教えてください(当然”非通知”でかけ
てきているので)」というと、これこそ彼らの常套手段で”いきなり”電
話を切られた。
これも以前書いたが、2回にわたり(以前の時点では1回)はっきりと
”断り”の意思表示をし、”迷惑”である旨まで伝えてある120%
見込みのない人に対し3度目の電話をしてくる意味がまったくわから
ない。たとえば”奴隷”として強制的に、あるいは脅迫されてこういう
ことをしている(せざるをえない)のならまだわかる。しかし、いくら
組織や上司からの命令であったとしても、この若者は相手の迷惑を一切
顧みることもなく意味のない『時間つぶし』によって「仕事のフリ」を
しているとしか思えない。つまり、「単なる収入のためでなく、どんな
形であれ少しでも社会に貢献しているという『誇り』を全く持たずに」
仕事をしているとしか思えないのである。
このような若者に対して自分の見方は「怒りを通り越して」から「哀れ
でかわいそう」へと変遷してきていたが、ここまで執拗にされると今回
は最終的にはこういう若者を作り出してきた”社会”、さらにはそうい
う”社会”を作り出してしまった(自分をふくむ)現中年以上の世代の
責任であり、むしろこのような若者はその”犠牲者”にすぎないと考え
ざるをえないのである。すなわちこのような若者に「怒り」をおぼえる
ことなどもってのほかで、諸悪の根源は結局、自分自身(以上の世代)
であったのだと。
そう考えれば、今朝のイヤな気分も雲散霧消し、「開いた口が塞がる」
というものだろう。
「開けた口は(食物が入ったとたんに)すぐ
塞ぐ」ということを”モットー”にしている!?
こじろう
「怒りを通り越して」(その1およびその2)で書いたことのある某
業者の「ヨシダ氏」から、今朝仕事中に「なんとまた」電話がかかって
きたのである。(11月21日と11月28日の「こじろう117」参照)
「なんとまた」というのも(もう思い出したくもないのだが)前2回とも
”ハッキリとお断り”(もちろん言葉遣いを含めて丁重にしたつもりであ
るが、内容的には『拒絶』のつもりである)していたからである。
前回、前々回と異なるのは今回は特に午前の早い”より忙しい時間帯”
(もっとも彼に相手の”忙しい時間帯”などについての認識は微塵もな
いと思うが)であることと、「マンション経営の案内」が「年金運用商品
の案内」になっていたことだった。
今までも書いたように、電話で「営業」することは基本的に自由であり、
そのこと自体について(少なくともこの「ヨシダ氏」からの1回目の電
話について)何かいうことはない。しかし1回目の電話では「一切興味
がない」旨を、2回目の電話では「もう電話しないでほしい」旨を”明
確に”かつ”毅然と”かつ”丁重に”既に伝えていたとなれば話は別で
ある。
3回目となればもう「間違ってかけた」では済まされず、それに今回は
特にはじめから人を”バカ”にしたような口調だったので、またもやた
まりかねて「あなたには人に『迷惑をかけている』ということの意味が
わからないのですか。(以前に『迷惑』であることは伝達済)上司と代
わってください」というと、「今、上司は手が離せません」と返してき
たので、「こちらこそ手が離せない状況で電話にでているんですよ。あ
とで上司に電話するので番号を教えてください(当然”非通知”でかけ
てきているので)」というと、これこそ彼らの常套手段で”いきなり”電
話を切られた。
これも以前書いたが、2回にわたり(以前の時点では1回)はっきりと
”断り”の意思表示をし、”迷惑”である旨まで伝えてある120%
見込みのない人に対し3度目の電話をしてくる意味がまったくわから
ない。たとえば”奴隷”として強制的に、あるいは脅迫されてこういう
ことをしている(せざるをえない)のならまだわかる。しかし、いくら
組織や上司からの命令であったとしても、この若者は相手の迷惑を一切
顧みることもなく意味のない『時間つぶし』によって「仕事のフリ」を
しているとしか思えない。つまり、「単なる収入のためでなく、どんな
形であれ少しでも社会に貢献しているという『誇り』を全く持たずに」
仕事をしているとしか思えないのである。
このような若者に対して自分の見方は「怒りを通り越して」から「哀れ
でかわいそう」へと変遷してきていたが、ここまで執拗にされると今回
は最終的にはこういう若者を作り出してきた”社会”、さらにはそうい
う”社会”を作り出してしまった(自分をふくむ)現中年以上の世代の
責任であり、むしろこのような若者はその”犠牲者”にすぎないと考え
ざるをえないのである。すなわちこのような若者に「怒り」をおぼえる
ことなどもってのほかで、諸悪の根源は結局、自分自身(以上の世代)
であったのだと。
そう考えれば、今朝のイヤな気分も雲散霧消し、「開いた口が塞がる」
というものだろう。
「開けた口は(食物が入ったとたんに)すぐ
塞ぐ」ということを”モットー”にしている!?
こじろう
2009年12月15日
”スキャンダル”と”本業”
つい先日の「史上最年少の賞金王誕生」の一報は、ゴルフファンに対してだけ
でなく、今年の数少ない”明るいニュースの代表”と位置づけてもいいだろう。
かつて日本ゴルフ界に一時代を築いたA・O・Nも高く評価している”新賞金王”
は実力と将来性に加え丁寧な言葉遣いなどからくる好感度の高さもあり、これ
までゴルフにまったく興味がなかったような人までも魅了して、ファンもますます
増えている。とても一過性とは思えないこの「人気」と「ブーム」はもはや驚嘆の
域に達しているともいえる。
その一方で世界に目を向けると、同じ「種目」で”超”がつくスーパースターであ
る”T・W”が大スキャンダルのさなかにある。昨日の報道によれば、今後無期限
ツアー出場辞退などの可能性もあるという。しかし”本業”そのもので不祥事が
あったわけではなく、また誰か一般の人に迷惑をかけたわけでもないので、それ
は”いきすぎ”だろうという意見も多いようだ。(実際今回の件により”損害を被る”
企業や団体があるとしても、それらは逆に今までその”T・W”にその何千倍も
”儲けさせてもらった”わけであり、何もいう資格はないだろう)
”T・W”限らず、”超”のつくスーパースターが「本業とは別のところ」でスキャン
ダルに巻き込まれたことは枚挙に暇がない。ただし厳密には「本業と別」といっ
ても、”スーパースター”と呼ばれる人たちは世間の人々に「夢を与えている」
ことにより収入を得ているともいえる。つまり「さまざまな面で人々を”失望”させ
ない」こともいわば「本業の一部である」といえないこともないのである。
「斯界で頂点に立つような人はそれなりの『品格』を有するべきである」とは、
譲ることのできない持論である。(12月2日の「こじろう117」を参照)
しかし、そういう人のゴシップやスキャンダルを”過剰に”かつ”興味本位的に”
かつ”執拗に”取り上げる一部のメディアはそれが彼らの「本業」だとしても、
やはり仕事上最低限の「品性」くらいは持ち合わせてほしいものである。
自分にとっての「本業」とは何なのかと自問はするが、
未だにその答えが見つからない!? こじろう
でなく、今年の数少ない”明るいニュースの代表”と位置づけてもいいだろう。
かつて日本ゴルフ界に一時代を築いたA・O・Nも高く評価している”新賞金王”
は実力と将来性に加え丁寧な言葉遣いなどからくる好感度の高さもあり、これ
までゴルフにまったく興味がなかったような人までも魅了して、ファンもますます
増えている。とても一過性とは思えないこの「人気」と「ブーム」はもはや驚嘆の
域に達しているともいえる。
その一方で世界に目を向けると、同じ「種目」で”超”がつくスーパースターであ
る”T・W”が大スキャンダルのさなかにある。昨日の報道によれば、今後無期限
ツアー出場辞退などの可能性もあるという。しかし”本業”そのもので不祥事が
あったわけではなく、また誰か一般の人に迷惑をかけたわけでもないので、それ
は”いきすぎ”だろうという意見も多いようだ。(実際今回の件により”損害を被る”
企業や団体があるとしても、それらは逆に今までその”T・W”にその何千倍も
”儲けさせてもらった”わけであり、何もいう資格はないだろう)
”T・W”限らず、”超”のつくスーパースターが「本業とは別のところ」でスキャン
ダルに巻き込まれたことは枚挙に暇がない。ただし厳密には「本業と別」といっ
ても、”スーパースター”と呼ばれる人たちは世間の人々に「夢を与えている」
ことにより収入を得ているともいえる。つまり「さまざまな面で人々を”失望”させ
ない」こともいわば「本業の一部である」といえないこともないのである。
「斯界で頂点に立つような人はそれなりの『品格』を有するべきである」とは、
譲ることのできない持論である。(12月2日の「こじろう117」を参照)
しかし、そういう人のゴシップやスキャンダルを”過剰に”かつ”興味本位的に”
かつ”執拗に”取り上げる一部のメディアはそれが彼らの「本業」だとしても、
やはり仕事上最低限の「品性」くらいは持ち合わせてほしいものである。
自分にとっての「本業」とは何なのかと自問はするが、
未だにその答えが見つからない!? こじろう
2009年12月14日
一番不安な『今、やってます』
この日曜日、ある洋食のレストランを訪れた。この不景気でもさすがに
休日のランチタイムとあって家族連れなどでかなり混雑していたが、あ
らためてほかの店を探すだけの元気もなく、たまたまテーブルにもすぐ
空きができたのでそのまま案内され席に着いた。
混雑している食堂やレストランに入ると、どうしても「あのとき」のこと思
い出してしまう。
数年前、リーズナブルではあるがよく知られたある和食の店に昼食を
とりに知人と入った。相当混雑しておりなかなか注文を尋ねにも来れ
ないようだったので、通りかかった男性(中年)の店員を呼び止めて、
(なるべく早く出してほしいと思い)「日替わり定食」を2つ頼んだ。
店員は「わかりました」と”調子よく”応え、その後お茶も運ばれてきた
ので”安心して”話をしながら待っていたが、それなりの時間になって
もなかなか食事が運ばれてこない。それほど時間的な余裕もなかった
ので通りかかった女性店員に「まだですかね」と尋ねると、即座に「今
やってますので」といわれた。またしばらく待っていても一向に運ばれ
てくる気配がなかったところに、最初に注文を伝えた店員が通りかか
ったので、「だいぶ待っているんですが、まだですかねえ」と言うと、
やはり「今順番にやってますのでお待ちください」と即答された。あま
りうるさい客だと思われたくないとの気持ちもあったが、その後明ら
かに自分達より後に入ってきた客に次々と「日替わり定食」と思わ
れるものが運ばれてきているのを見て、ついにたまりかねてこちら
から別の店員を呼び、「すみません、もう30分以上も待っているん
ですが、注文はちゃんと入っているんですかねえ」と少し強い調子
で言ってみた。
「お待ちください」とは言ったものの、今度はさすがにすぐ厨房のほう
へ行ったかと思うと、なにやら”ざわざわ”した様子があり、それから
”数十秒後”に「お待たせしました」と、なんと何事もなかったように運
ばれてきたのである。
結局”ずいぶん”遅れたことについての説明も詫びもなく、こちらも
「待ちくたびれた」状態でもう何も言う元気もなかったが、「最初の段
階で注文が入っていなかった」のは明白であった。
「今、やってます」とか「順番にお出ししています」というのは、混雑
時に客から尋ねられたときのその店の「対応マニュアルの一つ」に
なっているのだろうが、確かにそのようにいわれればとりあえず客
としてはなにもいえない。しかし、そのとき応対した数名の店員はい
わゆる学生のアルバイトなどではなく、少なくとも見た目はそれなり
の年齢のれっきとした社会人(正社員かどうかまではもちろんわから
ないが)であり、いくら「マニュアル対応」でも”限度”というものがあ
るのでは、と感じたものである。
今回は混雑の割にはそれほど待たされることもなかったが、あれ以来
「今、やってますのでお待ちください」というようなことをあまりに”あっさ
り”とあらかじめ”用意されていたように”いわれてしまうと、かえって不
安だけが増幅されるようになってしまったことは確かである。そのとき
まではよく利用していたその店には”それ以降”訪れてはいない。
決められた時間になってもなかなか食事が出て
こないと、「飼い主が忘れているのでは」と不安
でしかたのない!? こじろう
休日のランチタイムとあって家族連れなどでかなり混雑していたが、あ
らためてほかの店を探すだけの元気もなく、たまたまテーブルにもすぐ
空きができたのでそのまま案内され席に着いた。
混雑している食堂やレストランに入ると、どうしても「あのとき」のこと思
い出してしまう。
数年前、リーズナブルではあるがよく知られたある和食の店に昼食を
とりに知人と入った。相当混雑しておりなかなか注文を尋ねにも来れ
ないようだったので、通りかかった男性(中年)の店員を呼び止めて、
(なるべく早く出してほしいと思い)「日替わり定食」を2つ頼んだ。
店員は「わかりました」と”調子よく”応え、その後お茶も運ばれてきた
ので”安心して”話をしながら待っていたが、それなりの時間になって
もなかなか食事が運ばれてこない。それほど時間的な余裕もなかった
ので通りかかった女性店員に「まだですかね」と尋ねると、即座に「今
やってますので」といわれた。またしばらく待っていても一向に運ばれ
てくる気配がなかったところに、最初に注文を伝えた店員が通りかか
ったので、「だいぶ待っているんですが、まだですかねえ」と言うと、
やはり「今順番にやってますのでお待ちください」と即答された。あま
りうるさい客だと思われたくないとの気持ちもあったが、その後明ら
かに自分達より後に入ってきた客に次々と「日替わり定食」と思わ
れるものが運ばれてきているのを見て、ついにたまりかねてこちら
から別の店員を呼び、「すみません、もう30分以上も待っているん
ですが、注文はちゃんと入っているんですかねえ」と少し強い調子
で言ってみた。
「お待ちください」とは言ったものの、今度はさすがにすぐ厨房のほう
へ行ったかと思うと、なにやら”ざわざわ”した様子があり、それから
”数十秒後”に「お待たせしました」と、なんと何事もなかったように運
ばれてきたのである。
結局”ずいぶん”遅れたことについての説明も詫びもなく、こちらも
「待ちくたびれた」状態でもう何も言う元気もなかったが、「最初の段
階で注文が入っていなかった」のは明白であった。
「今、やってます」とか「順番にお出ししています」というのは、混雑
時に客から尋ねられたときのその店の「対応マニュアルの一つ」に
なっているのだろうが、確かにそのようにいわれればとりあえず客
としてはなにもいえない。しかし、そのとき応対した数名の店員はい
わゆる学生のアルバイトなどではなく、少なくとも見た目はそれなり
の年齢のれっきとした社会人(正社員かどうかまではもちろんわから
ないが)であり、いくら「マニュアル対応」でも”限度”というものがあ
るのでは、と感じたものである。
今回は混雑の割にはそれほど待たされることもなかったが、あれ以来
「今、やってますのでお待ちください」というようなことをあまりに”あっさ
り”とあらかじめ”用意されていたように”いわれてしまうと、かえって不
安だけが増幅されるようになってしまったことは確かである。そのとき
まではよく利用していたその店には”それ以降”訪れてはいない。
決められた時間になってもなかなか食事が出て
こないと、「飼い主が忘れているのでは」と不安
でしかたのない!? こじろう
2009年12月13日
「あとで『赤面』!!!」(その2)
先日(12月10日)の「あとで『赤面』!!!」(その1)では、「外
で食事をする際に一方的に見られていた場合」について書いたが、
自分の中で”最も気をつけなくては”と思っているのは、実は自動
車の運転中のことについてである。
ほぼ毎日自動車を運転する機会はあるが、一般道で時間に追わ
れて急いでいるのに”前車”が「マイペース」でもたもたしていたり、
信号が青になってもすぐに発信しないようなときにはついイライラ
して表情に出したり、”ソフトに”威嚇を試みてしまうことすらある。
暗い時間帯は別としても、運転者の顔や表情というものは外や他
の自動車から「案外」よく見えるものである。自分でも知人が運転
している場面に遭遇し、その人が「舌打ち」しているところとか、ま
た少々乱暴気味な運転(急発進のあとに猛スピードで去っていく
など)をしているところをみると、「え、あの人にこんな面があるのか」
と驚いたこともある。
普段おとなしそうに見える人が「ハンドルを握った瞬間に急に性格
が変わる」などというのはよく聞く話であるが、若いときなら「許され
る」ことでも、自分の年代になってだと通用しないこともやはりそれな
りにあるのだ。
普段の振る舞いにいくら気をつけていても、思わぬところのたった1回
の”不注意”や”失態”で一気に信用を失ったり人格を疑われたりする
ことのないように、やはり一歩自宅の外に出たら”常に”「他人の眼」を
意識する必要はあるようだ。
散歩中に乱暴な運転をする人(自動車)に
遭遇しても、怒るよりも「ダメな奴だ」と大人
?の対応をする!? こじろう
で食事をする際に一方的に見られていた場合」について書いたが、
自分の中で”最も気をつけなくては”と思っているのは、実は自動
車の運転中のことについてである。
ほぼ毎日自動車を運転する機会はあるが、一般道で時間に追わ
れて急いでいるのに”前車”が「マイペース」でもたもたしていたり、
信号が青になってもすぐに発信しないようなときにはついイライラ
して表情に出したり、”ソフトに”威嚇を試みてしまうことすらある。
暗い時間帯は別としても、運転者の顔や表情というものは外や他
の自動車から「案外」よく見えるものである。自分でも知人が運転
している場面に遭遇し、その人が「舌打ち」しているところとか、ま
た少々乱暴気味な運転(急発進のあとに猛スピードで去っていく
など)をしているところをみると、「え、あの人にこんな面があるのか」
と驚いたこともある。
普段おとなしそうに見える人が「ハンドルを握った瞬間に急に性格
が変わる」などというのはよく聞く話であるが、若いときなら「許され
る」ことでも、自分の年代になってだと通用しないこともやはりそれな
りにあるのだ。
普段の振る舞いにいくら気をつけていても、思わぬところのたった1回
の”不注意”や”失態”で一気に信用を失ったり人格を疑われたりする
ことのないように、やはり一歩自宅の外に出たら”常に”「他人の眼」を
意識する必要はあるようだ。
散歩中に乱暴な運転をする人(自動車)に
遭遇しても、怒るよりも「ダメな奴だ」と大人
?の対応をする!? こじろう
2009年12月12日
「親の責任は重大」
つい先日、今年つけられた新生児の名前ランキングを発表している
テレビ番組を観る機会があった。このようなランキングは以前からあ
ったと思うが、確かにその時代の世相などを反映している部分も大
きく興味深い。
人の名前というのはその人だけの「固有の財産」であり、ほとんどの
場合は一生つき合う(つき合わざるをえない)ものでもある。だから
たいていの親はわが子の幸福を願い、さまざまな思いをこめて、最大
限の知恵をしぼって”命名”するのが全世界共通のことであると思う。
昨今、「この名前は何と読むのだろう?」という思いをすることがしばし
ばある。中にはどうみても名づけた親しか読めそうもないものや、何か
に”こじつけた”としか思えないものも散見される。それだけ「工夫し」
「思い入れが強く」「わが子は特別」ということでつけたといえば、その
とおりかもしれない。しかし、名前というのは他人に呼んで(読んで)も
らって初めて「価値があるもの」ということもいえる。
幼少期はひらがな表記ですむだろうが、成長するに従って漢字表記に
なったときにその読み方をその都度説明しなくてはならないのは子ども
自身である。また読み方の問題だけならまだしも、あまり「変わった名
前」はやはり幼少期は「かわいい名前」ですんだとして、その後はそれ
が「いじめられる原因」になることもあり、また大人になって「恥ずかしい
思い」につながることもあるかもしれない。
親としてわが子の”命名”という「一大イベント」で自らの”好み”や”趣
味”を反映させたり、”凝る”ことも基本的には自由である。しかしそこに
は、そうしてつけられた名前を一生背負うことになる子どもの将来に対
する「重大な責任」も当然生じてくるのである。
子どもの名前によって名づけた親自身の”教養”や”社会性”の程度が
推し量られるのも確かなことである。数百年前に兼好法師が”現代の
子どもの命名に関する問題”に既に「警鐘」を鳴らしていたとしか思えな
い「徒然草第116段」を、これからわが子に命名する親はしっかり読み、
その深い意味をよく考えるよう、忠告したいものである。
自分につけられた名前の”意味”が何なのか
よりも、今日のおやつは何なのかの方にに関
心がある!? こじろう
テレビ番組を観る機会があった。このようなランキングは以前からあ
ったと思うが、確かにその時代の世相などを反映している部分も大
きく興味深い。
人の名前というのはその人だけの「固有の財産」であり、ほとんどの
場合は一生つき合う(つき合わざるをえない)ものでもある。だから
たいていの親はわが子の幸福を願い、さまざまな思いをこめて、最大
限の知恵をしぼって”命名”するのが全世界共通のことであると思う。
昨今、「この名前は何と読むのだろう?」という思いをすることがしばし
ばある。中にはどうみても名づけた親しか読めそうもないものや、何か
に”こじつけた”としか思えないものも散見される。それだけ「工夫し」
「思い入れが強く」「わが子は特別」ということでつけたといえば、その
とおりかもしれない。しかし、名前というのは他人に呼んで(読んで)も
らって初めて「価値があるもの」ということもいえる。
幼少期はひらがな表記ですむだろうが、成長するに従って漢字表記に
なったときにその読み方をその都度説明しなくてはならないのは子ども
自身である。また読み方の問題だけならまだしも、あまり「変わった名
前」はやはり幼少期は「かわいい名前」ですんだとして、その後はそれ
が「いじめられる原因」になることもあり、また大人になって「恥ずかしい
思い」につながることもあるかもしれない。
親としてわが子の”命名”という「一大イベント」で自らの”好み”や”趣
味”を反映させたり、”凝る”ことも基本的には自由である。しかしそこに
は、そうしてつけられた名前を一生背負うことになる子どもの将来に対
する「重大な責任」も当然生じてくるのである。
子どもの名前によって名づけた親自身の”教養”や”社会性”の程度が
推し量られるのも確かなことである。数百年前に兼好法師が”現代の
子どもの命名に関する問題”に既に「警鐘」を鳴らしていたとしか思えな
い「徒然草第116段」を、これからわが子に命名する親はしっかり読み、
その深い意味をよく考えるよう、忠告したいものである。
自分につけられた名前の”意味”が何なのか
よりも、今日のおやつは何なのかの方にに関
心がある!? こじろう
2009年12月11日
「人の『心理』は”複雑”」
今月8日N県では初の「裁判員裁判」が開廷し、昨日被告人に判決
が言い渡された。この制度には反対する声も未だにあり、問題点や
改善点も数多く指摘されている。とはいえ全国では対象事案につき
既に100件近い判決が出されており、一応は”市民の感覚”に浸透
しつつあるといってもいいだろう。
今回の裁判については、地元紙により連日かなりの紙面を割いて詳
しく報道がなされ、県民の関心もそれなりに高いことがうかがえるが、
自分個人として最も興味深いのは「裁判員の選任・不選任」について
の問題である。
裁判員の選任にあたっては、まず衆院選有権者よりクジで選ばれた
裁判員候補者(以下”候補者”)に質問状・呼出状が公布された後、
呼び出しを受けたその候補者に裁判長が質問するなどして”選任”
”不選任”が決定される。ポイントはこの「不選任の決定」である。
その過程では検察官と弁護側がそれぞれ、「公判で不公平な判断を
する可能性があるなどとする人について、『理由を示さずに』に”忌避”
できる(原則4人まで)」とされている。公平性維持の観点からその過
程を「非公開」とする趣旨も理解できる。しかし「理由を明かされずに
不選任となった人」にとっては自分が「不公平な判断をする可能性が
あるとして”忌避”されてしまった」と考えても不思議ではないだろう。
さらに今回実際に呼び出しを受けたにもかかわらず、当日用の質問票
に記入しただけで個別面接すらされずに不選任とされ、首を傾げなが
ら帰った人もいたと報道されていた。
「どうしても裁判員になりたくない」という場合は別として、「それほど
イヤでもない」とか「どちらでもいい」という場合には「理由も告げられ
ず」しかも”忌避”された可能性もあるなかで不選任になれば、釈然と
しない部分も大いに残るだろう。
たとえば職場で仕事のあと、「これからみんなで飲みに行こう」などと
いう雰囲気になったとき、できればその日は参加したくないと思ってい
たとしても、最初から自分が誘われなかったり、自分だけ”はずされた
り”すればやはり気持ちのよいものではない。人間の心理とはさように
「複雑なもの」なのである。
「候補者名簿」に載るのは352人に1人、実際に裁判員に選任される
のは5000人に1人だそうだが、いつ自分が「候補者」になるのかは
待ち遠しいような、そうでないようなまさに「複雑な気分」である。
家族の『だんらん』に、ときどき自分だけ
”はずされる”ことに「複雑な思い」をかく
せない!? こじろう
が言い渡された。この制度には反対する声も未だにあり、問題点や
改善点も数多く指摘されている。とはいえ全国では対象事案につき
既に100件近い判決が出されており、一応は”市民の感覚”に浸透
しつつあるといってもいいだろう。
今回の裁判については、地元紙により連日かなりの紙面を割いて詳
しく報道がなされ、県民の関心もそれなりに高いことがうかがえるが、
自分個人として最も興味深いのは「裁判員の選任・不選任」について
の問題である。
裁判員の選任にあたっては、まず衆院選有権者よりクジで選ばれた
裁判員候補者(以下”候補者”)に質問状・呼出状が公布された後、
呼び出しを受けたその候補者に裁判長が質問するなどして”選任”
”不選任”が決定される。ポイントはこの「不選任の決定」である。
その過程では検察官と弁護側がそれぞれ、「公判で不公平な判断を
する可能性があるなどとする人について、『理由を示さずに』に”忌避”
できる(原則4人まで)」とされている。公平性維持の観点からその過
程を「非公開」とする趣旨も理解できる。しかし「理由を明かされずに
不選任となった人」にとっては自分が「不公平な判断をする可能性が
あるとして”忌避”されてしまった」と考えても不思議ではないだろう。
さらに今回実際に呼び出しを受けたにもかかわらず、当日用の質問票
に記入しただけで個別面接すらされずに不選任とされ、首を傾げなが
ら帰った人もいたと報道されていた。
「どうしても裁判員になりたくない」という場合は別として、「それほど
イヤでもない」とか「どちらでもいい」という場合には「理由も告げられ
ず」しかも”忌避”された可能性もあるなかで不選任になれば、釈然と
しない部分も大いに残るだろう。
たとえば職場で仕事のあと、「これからみんなで飲みに行こう」などと
いう雰囲気になったとき、できればその日は参加したくないと思ってい
たとしても、最初から自分が誘われなかったり、自分だけ”はずされた
り”すればやはり気持ちのよいものではない。人間の心理とはさように
「複雑なもの」なのである。
「候補者名簿」に載るのは352人に1人、実際に裁判員に選任される
のは5000人に1人だそうだが、いつ自分が「候補者」になるのかは
待ち遠しいような、そうでないようなまさに「複雑な気分」である。
家族の『だんらん』に、ときどき自分だけ
”はずされる”ことに「複雑な思い」をかく
せない!? こじろう
2009年12月10日
『史上最高・空前絶後』のミステリー
毎年暮れのこの時期になると、「12月10日」=「三億円事件」とすぐ
思い出すほどにこの事件は強烈に印象に残っている。
現在「三億円」と聞くと、自分のような代表的”庶民”にとっては相変わ
らず「非現実的」な金額であるが、まだ23歳のダルビッシュ投手は1
年足らずで稼いでしまうし、年末ジャンボでも一発で手に入る(万一当
たれば!)額でもある。
しかし41年前(1968年)の「三億円」は気の遠くなるような”とんでも
ないもの”だった。だからその”総額”を耳にしてもすぐにはイメージが
わかず、自分にとってはむしろ当時の担任教師に「いいか、三億円と
いうのは一日一万円ずつ使っても80年以上もかかるんだぞ」といわれ
ときの方が”ピン”ときたものだ。(ちなみに当時の大卒初任給の相場
は三万円ほどであったと記憶している)
この事件についてはその桁違いの被害金額だけでなく、大胆な犯行
手口や当局の威信をかけた大捜査体制も大きく話題になった。事件
より7年後の「時効成立」時にはテレビで大特番が組まれ、成立直前
の1分前からは画面に時計が大写しになり、”カウントダウン”まで行
なわれたのには本当に驚いた。41年後の今朝でさえ某局のワイド
ショーで特集をしているほどでもある。
誰もが”素人探偵”になり、さまざまな揣摩臆測が飛び交い、小説化
、映画化、テレビドラマ化されたものも数え切れないほどあるために
当時を知らない世代でも事件の概要くらいは把握している人が多いだ
ろう。
この事件の大きな”謎”は未だ真犯人がわからないだけでなく、その
「三億円」がいったいどうなってしまったのかということでもある。警察
が当時番号を公表した一万円札については少なくとも使われた形跡
はなく、どこかに「消えてしまった」可能性も高いようである。
「事実は小説より奇なり」とはこの事件のためにあるようなフレーズだ
といっても過言ではない。まさに『史上最高・空前絶後』の実在ミステ
リーといってもよいだろう。
金銭の価値はよくわからないが、自分の
「食料」の価値はよくわかっている!?
こじろう
思い出すほどにこの事件は強烈に印象に残っている。
現在「三億円」と聞くと、自分のような代表的”庶民”にとっては相変わ
らず「非現実的」な金額であるが、まだ23歳のダルビッシュ投手は1
年足らずで稼いでしまうし、年末ジャンボでも一発で手に入る(万一当
たれば!)額でもある。
しかし41年前(1968年)の「三億円」は気の遠くなるような”とんでも
ないもの”だった。だからその”総額”を耳にしてもすぐにはイメージが
わかず、自分にとってはむしろ当時の担任教師に「いいか、三億円と
いうのは一日一万円ずつ使っても80年以上もかかるんだぞ」といわれ
ときの方が”ピン”ときたものだ。(ちなみに当時の大卒初任給の相場
は三万円ほどであったと記憶している)
この事件についてはその桁違いの被害金額だけでなく、大胆な犯行
手口や当局の威信をかけた大捜査体制も大きく話題になった。事件
より7年後の「時効成立」時にはテレビで大特番が組まれ、成立直前
の1分前からは画面に時計が大写しになり、”カウントダウン”まで行
なわれたのには本当に驚いた。41年後の今朝でさえ某局のワイド
ショーで特集をしているほどでもある。
誰もが”素人探偵”になり、さまざまな揣摩臆測が飛び交い、小説化
、映画化、テレビドラマ化されたものも数え切れないほどあるために
当時を知らない世代でも事件の概要くらいは把握している人が多いだ
ろう。
この事件の大きな”謎”は未だ真犯人がわからないだけでなく、その
「三億円」がいったいどうなってしまったのかということでもある。警察
が当時番号を公表した一万円札については少なくとも使われた形跡
はなく、どこかに「消えてしまった」可能性も高いようである。
「事実は小説より奇なり」とはこの事件のためにあるようなフレーズだ
といっても過言ではない。まさに『史上最高・空前絶後』の実在ミステ
リーといってもよいだろう。
金銭の価値はよくわからないが、自分の
「食料」の価値はよくわかっている!?
こじろう
2009年12月09日
「あとで『赤面』!!!」(その1)
昨日のこと、近くに住んでいる義母がある知人より「この前”娘さんの
家族”が私たちの隣で食事をしていたんですよ」と話されたと聞いた。
”娘さん家族”とはいうまでもなく我家族である。
先方が「一方的に」家内の顔を知っていたらしいので、当方としては
気付くはずもないが、確かにそのとき某レストランの隣のテーブルで
4人連れの家族が食事をしていたことは覚えており、時間と場所も一
致している。
このようなことはとりたてて珍しいことではないが、一方的に「見られ
ていた」(話を「聞かれていた」)というのはやはり気になるものである。
カジュアルなレストランであったとはいえ、何か変なことをしていたの
ではとか、変なことを喋っていたのではないか(義母が知人に対して
恥ずかしい思いをしたのでは)とかと不安になり、過ぎてしまったこと
とはいえ、そのときの家族の会話や所作のひとつひとつを思い出して
は検証さぜるをえなかったのである。
今回のようなとき、
1.「△△さん(当方の名前)ですよね。お母さんにはいつもお世話にな
っています」と一声かけてもらったほうがいいのか
2.そのまま声をかけられずに放っておいてもらったほうがいいのか
は(現代風にいえば)「微妙」なところである。
1.の場合は、普段特に親しくしていない人から声をかけられたことで
その後緊張して食が進まなくなってしまう可能性があるし、2.の場合
は、あとになってそのことを知った際にそのときの自分の言動一つ一つ
を思い出して不安になったり、赤面したりすることになるかもしれないか
らである。
家族や気のおけない人と食事をしているときというのは、それが自宅
の外であっても「無防備」になっていることが一般的である。もちろん
店に入った瞬間に知り合いがいるかどうかのチェックくらいは誰でもする
としても、全体が視界に入っているとは限らないし、気付かぬうちに後
から入店されている場合もありうる。
外食に限ったことではないが、自宅から一歩外に出た際は誰にどこで
見られていたとしても、あとで「赤面することのないような振る舞いをす
る」覚悟は必要だろう。(「その2」に続く)
散歩で自宅の外に出ると、異常なほどに
”人目”(犬目?)を気にする!?こじろう
家族”が私たちの隣で食事をしていたんですよ」と話されたと聞いた。
”娘さん家族”とはいうまでもなく我家族である。
先方が「一方的に」家内の顔を知っていたらしいので、当方としては
気付くはずもないが、確かにそのとき某レストランの隣のテーブルで
4人連れの家族が食事をしていたことは覚えており、時間と場所も一
致している。
このようなことはとりたてて珍しいことではないが、一方的に「見られ
ていた」(話を「聞かれていた」)というのはやはり気になるものである。
カジュアルなレストランであったとはいえ、何か変なことをしていたの
ではとか、変なことを喋っていたのではないか(義母が知人に対して
恥ずかしい思いをしたのでは)とかと不安になり、過ぎてしまったこと
とはいえ、そのときの家族の会話や所作のひとつひとつを思い出して
は検証さぜるをえなかったのである。
今回のようなとき、
1.「△△さん(当方の名前)ですよね。お母さんにはいつもお世話にな
っています」と一声かけてもらったほうがいいのか
2.そのまま声をかけられずに放っておいてもらったほうがいいのか
は(現代風にいえば)「微妙」なところである。
1.の場合は、普段特に親しくしていない人から声をかけられたことで
その後緊張して食が進まなくなってしまう可能性があるし、2.の場合
は、あとになってそのことを知った際にそのときの自分の言動一つ一つ
を思い出して不安になったり、赤面したりすることになるかもしれないか
らである。
家族や気のおけない人と食事をしているときというのは、それが自宅
の外であっても「無防備」になっていることが一般的である。もちろん
店に入った瞬間に知り合いがいるかどうかのチェックくらいは誰でもする
としても、全体が視界に入っているとは限らないし、気付かぬうちに後
から入店されている場合もありうる。
外食に限ったことではないが、自宅から一歩外に出た際は誰にどこで
見られていたとしても、あとで「赤面することのないような振る舞いをす
る」覚悟は必要だろう。(「その2」に続く)
散歩で自宅の外に出ると、異常なほどに
”人目”(犬目?)を気にする!?こじろう
2009年12月08日
「三方一両”得”」は難しい!!!
”自身”の政治資金に関わる大問題をかかえながら、米軍普天間飛行場
移設問題でもまた”自身”の一連の発言をめぐって首相が窮地に追い込ま
れている。
一般的な問題では利害が対立する「二者」についての調整を図ればよいが、
今回の場合は、米国・沖縄・社民党という「三者」それぞれの思惑や事情が
複雑に絡み合うだけに、その解決にはより一層の困難が伴うようだ。
さらにはこれは単なる「移設」という問題にとどまらず、今後の日本の「安全
保障」の”あり方”や”根幹”に直結することだけに、総合的・包括的に最良の
方向性を見出さねばならない現政権の決断は極めて重要である。
スケールはグッと小さくなるが、仕事・近隣関係・家庭レベルでも、「一方を
立てれば他方が立たず」さらには「第三者にも影響を及ぼす」という問題は
日常的に存在する。妥協点を見出して「三方一両損」ならぬ「三方一両”得”」
をいかに実現できるかは決断力次第である。外部から見ればなんでもない
ようなことでも当事者には頭の痛い問題を抱えている毎日、首相の立場を
「他人ごと」と眺めている余裕はないのである。
飼い主との「利害の不一致」にいかに妥協点を
見出すべきか日夜悩んでいる!? こじろう
移設問題でもまた”自身”の一連の発言をめぐって首相が窮地に追い込ま
れている。
一般的な問題では利害が対立する「二者」についての調整を図ればよいが、
今回の場合は、米国・沖縄・社民党という「三者」それぞれの思惑や事情が
複雑に絡み合うだけに、その解決にはより一層の困難が伴うようだ。
さらにはこれは単なる「移設」という問題にとどまらず、今後の日本の「安全
保障」の”あり方”や”根幹”に直結することだけに、総合的・包括的に最良の
方向性を見出さねばならない現政権の決断は極めて重要である。
スケールはグッと小さくなるが、仕事・近隣関係・家庭レベルでも、「一方を
立てれば他方が立たず」さらには「第三者にも影響を及ぼす」という問題は
日常的に存在する。妥協点を見出して「三方一両損」ならぬ「三方一両”得”」
をいかに実現できるかは決断力次第である。外部から見ればなんでもない
ようなことでも当事者には頭の痛い問題を抱えている毎日、首相の立場を
「他人ごと」と眺めている余裕はないのである。
飼い主との「利害の不一致」にいかに妥協点を
見出すべきか日夜悩んでいる!? こじろう
2009年12月07日
『4桁』推測ゲーム!!!
昨日、2週間ぶりにN野道~C央道を300㎞ほど往復する機会が
あった。「休日割引制度」導入以来の混雑については既にこの場
でも触れているが、そうはいっても全行程で混雑しているわけでは
なく、時間帯や区間によっては以前と変わらず通行量が少ないこと
もまだまだある。
特に昨日の場合は同乗者がおらず、また快晴ということもあり音楽
を聴くだけでは運転の”単調さ”から逃れることができないうえに、わ
ずかながら”眠気”も催してきたので、”趣味”である「(最大)『4桁』
推測ゲーム」にとりかかることにした。
前を走る自動車のナンバーからいろいろなことを”こじつけて”考える
ことは子どもの頃から好きだった。当時はその(最大)4桁の数字は
基本的に陸運事務所から割り当てられる”偶然”の数字の並びであ
り、たとえば「3824」というナンバーを見つけると「3×8=24」だとか
「5687」の場合は「56÷8=7」などと”こじつけて”は単純にうれしか
ったものだ。
それが「希望ナンバー制度」の導入以降はその該当車両につき、「所
有者や使用者がその”希望ナンバー”に込めた”意図”や”意味”は何
なのか」と考えるようになり、一段と楽しみが増えたのである。
単なる語呂合わせと思われる「2525(ニコニコ)」「2574(事故なし)」
「5963(ごくろうさん)」「1818(イヤイヤ?)」などもよく見るが、自分
の誕生日、たとえば10月24日ならば「1024」とか、または自宅等の
電話番号によると思われるものも多い。
つい先日も「・215」というナンバーの自動車から降りてきた知人に「2月
15日生まれですか」と尋ねたところズバリ当たっていた。もっともその人
は最初なぜそんなことを急に訊かれ、しかも当てられたのかわからない
という表情をしており、どんな数字をどんな意味でナンバーに選んだのか
を忘れてしまっている人が案外多い点も興味深い。
名前や顔は知らなくても、わずか(最大)4桁の数字からその所有者や使
用者の「人となり」の一端や差し障りのない「個人情報」を推測するのは
なかなかおもしろく、やめられない面白さがある。
これから「希望ナンバー」で登録しようとする人たちに「余計なこと」と知り
つつも忠告する。まずあまりに覚えられやすいナンバーである「・・・1」や
「・777」などはやはり結構目立つので、駐停車中に「あれ、あいつこんな
変なところで何してるんだろう」といらぬ”詮索”をされてしまったりするし、
ふざけ半分で「・89△」(△には”ある”数字が入る)などにすると(「本当
の人」はともかくとして)、思わぬ”攻撃”や”いやがらせ”を受けたりするこ
とがあるらしいので”要注意”である。
自分の名前をもじって「5260」というナンバーを
飼い主につけてほしいと願っている!?
こじろう
あった。「休日割引制度」導入以来の混雑については既にこの場
でも触れているが、そうはいっても全行程で混雑しているわけでは
なく、時間帯や区間によっては以前と変わらず通行量が少ないこと
もまだまだある。
特に昨日の場合は同乗者がおらず、また快晴ということもあり音楽
を聴くだけでは運転の”単調さ”から逃れることができないうえに、わ
ずかながら”眠気”も催してきたので、”趣味”である「(最大)『4桁』
推測ゲーム」にとりかかることにした。
前を走る自動車のナンバーからいろいろなことを”こじつけて”考える
ことは子どもの頃から好きだった。当時はその(最大)4桁の数字は
基本的に陸運事務所から割り当てられる”偶然”の数字の並びであ
り、たとえば「3824」というナンバーを見つけると「3×8=24」だとか
「5687」の場合は「56÷8=7」などと”こじつけて”は単純にうれしか
ったものだ。
それが「希望ナンバー制度」の導入以降はその該当車両につき、「所
有者や使用者がその”希望ナンバー”に込めた”意図”や”意味”は何
なのか」と考えるようになり、一段と楽しみが増えたのである。
単なる語呂合わせと思われる「2525(ニコニコ)」「2574(事故なし)」
「5963(ごくろうさん)」「1818(イヤイヤ?)」などもよく見るが、自分
の誕生日、たとえば10月24日ならば「1024」とか、または自宅等の
電話番号によると思われるものも多い。
つい先日も「・215」というナンバーの自動車から降りてきた知人に「2月
15日生まれですか」と尋ねたところズバリ当たっていた。もっともその人
は最初なぜそんなことを急に訊かれ、しかも当てられたのかわからない
という表情をしており、どんな数字をどんな意味でナンバーに選んだのか
を忘れてしまっている人が案外多い点も興味深い。
名前や顔は知らなくても、わずか(最大)4桁の数字からその所有者や使
用者の「人となり」の一端や差し障りのない「個人情報」を推測するのは
なかなかおもしろく、やめられない面白さがある。
これから「希望ナンバー」で登録しようとする人たちに「余計なこと」と知り
つつも忠告する。まずあまりに覚えられやすいナンバーである「・・・1」や
「・777」などはやはり結構目立つので、駐停車中に「あれ、あいつこんな
変なところで何してるんだろう」といらぬ”詮索”をされてしまったりするし、
ふざけ半分で「・89△」(△には”ある”数字が入る)などにすると(「本当
の人」はともかくとして)、思わぬ”攻撃”や”いやがらせ”を受けたりするこ
とがあるらしいので”要注意”である。
自分の名前をもじって「5260」というナンバーを
飼い主につけてほしいと願っている!?
こじろう
2009年12月06日
手脚がふるえ、声もふるえて・・・
「血液型占い」や「血液型別性格診断」などにはまったくもって興味を
示さない口であるが、周りからは自分は某(血液)型の典型である、
「熱しやすく冷めやすい(醒めやすい?)」タイプそのものだとよくいわ
れる。
数年前に世の中のブーム?にも乗って、”マジック”に凝ったことがあっ
た。当時テレビでよく放映されていたマジシャン”M”や”S"のクロース
アップマジックを最高画質モードでHDDに録画し、コマ送りで何度も再
生しては”検証”を重ねた。さらには「禁断のネタばらし本」を苦労の末
何とか手に入れて、自分(素人)でもできそうなものに”アレンジ”した
のである。
その自分”オリジナル”?作品のいくつかを、その後それなりの数の人に
いろいろな場面で披露したが、特にその中でカードを使った”とっておき
の2つ”については未だ誰ひとりにもその”トリック”を見破られていないの
が、自分の人生で最高の”誇り”といってもいいほどである。(もっとも、も
し見破られたとしたら「なんだよ、しょうもないなあ」といわれ、同時に人間
性まで疑われてしまうかもしれないが)
ところがやはり典型的某(血液)型の宿命か、ここ1~2年はカードを手にす
ることが全くなくなってしまい、もともと手先はお世辞にも”器用”といえない
だけに、その”腕前”が落ちただけでなく、手順すら覚束ないところまできて
いることは明白であった。
そんな中昨日のこと、話の成り行き上引くに引けなくなり、”個人的最高傑作”
の一つを5名の人たちの前で実演することになってしまった。何しろ久しぶりの
ことなので約束の時間が近づくにつれ、今まで体験したことのないような緊張
感に襲われてくる。実際カードを手にして始めた時にはその緊張がピークに達
し、「失敗してはいけない」と意識すればするほどにまずは”手”がふるえだす。
次いで”脚”もふるえだす。さらにマジックでは見ている人の”心理にいかにつ
けこむか”という部分が大切であり、手先以上に”トーク”の出来いかんがその
成否を握っているにもかかわらず、なんと”声”までふるえだしてしまったのであ
る。まさに絶体絶命のピンチである。
それでもまあ、そこはムダに?△十年も生きてきたわけではないということの
証か、なんとか動揺を見抜かれることなく?失敗せずに済んでことなきを得、
一応”面目”を保つことができたようだ。
しかしどんなに”緊張”しても”苦労”しても、一つのマジックを終え、見ていた人
たちの”信じられない”という表情や「えー、なんでそうなるの」という声に接した
瞬間の”ゾクゾクするような”なんともいえない”よろこび”は他の何事にも代え
難いのは確かである。(なかには「驚いたふり」をしてくれる人がいるのも承知し
ているくらいの”謙虚さ”はもっているつもりである、念のため)
”凝り性”の飼い主をいつも”冷ややかな眼”で
見ている!? こじろう
示さない口であるが、周りからは自分は某(血液)型の典型である、
「熱しやすく冷めやすい(醒めやすい?)」タイプそのものだとよくいわ
れる。
数年前に世の中のブーム?にも乗って、”マジック”に凝ったことがあっ
た。当時テレビでよく放映されていたマジシャン”M”や”S"のクロース
アップマジックを最高画質モードでHDDに録画し、コマ送りで何度も再
生しては”検証”を重ねた。さらには「禁断のネタばらし本」を苦労の末
何とか手に入れて、自分(素人)でもできそうなものに”アレンジ”した
のである。
その自分”オリジナル”?作品のいくつかを、その後それなりの数の人に
いろいろな場面で披露したが、特にその中でカードを使った”とっておき
の2つ”については未だ誰ひとりにもその”トリック”を見破られていないの
が、自分の人生で最高の”誇り”といってもいいほどである。(もっとも、も
し見破られたとしたら「なんだよ、しょうもないなあ」といわれ、同時に人間
性まで疑われてしまうかもしれないが)
ところがやはり典型的某(血液)型の宿命か、ここ1~2年はカードを手にす
ることが全くなくなってしまい、もともと手先はお世辞にも”器用”といえない
だけに、その”腕前”が落ちただけでなく、手順すら覚束ないところまできて
いることは明白であった。
そんな中昨日のこと、話の成り行き上引くに引けなくなり、”個人的最高傑作”
の一つを5名の人たちの前で実演することになってしまった。何しろ久しぶりの
ことなので約束の時間が近づくにつれ、今まで体験したことのないような緊張
感に襲われてくる。実際カードを手にして始めた時にはその緊張がピークに達
し、「失敗してはいけない」と意識すればするほどにまずは”手”がふるえだす。
次いで”脚”もふるえだす。さらにマジックでは見ている人の”心理にいかにつ
けこむか”という部分が大切であり、手先以上に”トーク”の出来いかんがその
成否を握っているにもかかわらず、なんと”声”までふるえだしてしまったのであ
る。まさに絶体絶命のピンチである。
それでもまあ、そこはムダに?△十年も生きてきたわけではないということの
証か、なんとか動揺を見抜かれることなく?失敗せずに済んでことなきを得、
一応”面目”を保つことができたようだ。
しかしどんなに”緊張”しても”苦労”しても、一つのマジックを終え、見ていた人
たちの”信じられない”という表情や「えー、なんでそうなるの」という声に接した
瞬間の”ゾクゾクするような”なんともいえない”よろこび”は他の何事にも代え
難いのは確かである。(なかには「驚いたふり」をしてくれる人がいるのも承知し
ているくらいの”謙虚さ”はもっているつもりである、念のため)
”凝り性”の飼い主をいつも”冷ややかな眼”で
見ている!? こじろう
2009年12月05日
「これでもか!」という「人権侵害」
今年も残すところ4週間を切ってしまったが、特にその下半期について
は毎日「ワイドショー」や「週刊誌」の”ネタ”がまさに「日替り」で登場す
るような雰囲気もあり、例の「婚カツ詐欺事件」もその直後に”登場”した
類似事件と完全に混同してしまったのは自分だけではあるまい。
それらのほとんどの事件には「被害者」がおり、「加害者」(不明のもの
もふくめて)がいるわけだが、気になるのは特にその前者に関するプライ
べートな情報が「これでもか!」というほどに画面上や誌面上にあふれて
いることである。中にはその異常ともいえる「詮索」や「暴露」に”違和感”
ではすまず、”嫌悪感”すら抱いている人もいるのではと思う。
特に島根県の「猟奇的」とも言える事件で(おそらく)一方的に犠牲になって
しまった女性についてなどは、もしこの被害に遭わなければ一生世間に(身
近な人にすら)知られることのないような極めて”個人的”なことまでも「興味
本位的に」報じられているようであり、遺族や近い関係にあった方々にとって
は、事件そのものとは別にその点においても「やりきれない気持ち」になって
いることは想像に難くない。
「加害者」と目される人物についても、捜査段階でまだ「容疑者」であり冤罪
の可能性もあるため、その扱いは慎重にせざるを得ないのは当然である。ま
た罪を犯したことが間違いないといってもその「人権」は保障されるべきであ
り、それらの意味で報道でも一部マスコミを除き実名が伏せられ写真や映像
にモザイク加工などが施されていることもやむを得ないだろう。
しかしそう考えても、やはりこれだけ「被害者側」のプライバシーが侵害されて
いる状況をみると、「加害者側の人権」はしっかり守られている一方で「被害
者側の人権」は”ないがしろ”にされ、場合によっては”蹂躙”されていること
には釈然としないものが残る。
新聞はともかくとしても、ワイドショーや週刊誌の類の「興味本位的」な報道
に接した際には「被害者や犠牲者の遺族・関係者の心情や怒りを”どれだけ
十分に忖度する”ことができるか」ということが、「自らの”人間性”のレベル」
を評価する基準になるかもしれない。
飼い主に対して、「人権」ならぬ「犬権?」
を主張して譲らないこともある!?
こじろう
は毎日「ワイドショー」や「週刊誌」の”ネタ”がまさに「日替り」で登場す
るような雰囲気もあり、例の「婚カツ詐欺事件」もその直後に”登場”した
類似事件と完全に混同してしまったのは自分だけではあるまい。
それらのほとんどの事件には「被害者」がおり、「加害者」(不明のもの
もふくめて)がいるわけだが、気になるのは特にその前者に関するプライ
べートな情報が「これでもか!」というほどに画面上や誌面上にあふれて
いることである。中にはその異常ともいえる「詮索」や「暴露」に”違和感”
ではすまず、”嫌悪感”すら抱いている人もいるのではと思う。
特に島根県の「猟奇的」とも言える事件で(おそらく)一方的に犠牲になって
しまった女性についてなどは、もしこの被害に遭わなければ一生世間に(身
近な人にすら)知られることのないような極めて”個人的”なことまでも「興味
本位的に」報じられているようであり、遺族や近い関係にあった方々にとって
は、事件そのものとは別にその点においても「やりきれない気持ち」になって
いることは想像に難くない。
「加害者」と目される人物についても、捜査段階でまだ「容疑者」であり冤罪
の可能性もあるため、その扱いは慎重にせざるを得ないのは当然である。ま
た罪を犯したことが間違いないといってもその「人権」は保障されるべきであ
り、それらの意味で報道でも一部マスコミを除き実名が伏せられ写真や映像
にモザイク加工などが施されていることもやむを得ないだろう。
しかしそう考えても、やはりこれだけ「被害者側」のプライバシーが侵害されて
いる状況をみると、「加害者側の人権」はしっかり守られている一方で「被害
者側の人権」は”ないがしろ”にされ、場合によっては”蹂躙”されていること
には釈然としないものが残る。
新聞はともかくとしても、ワイドショーや週刊誌の類の「興味本位的」な報道
に接した際には「被害者や犠牲者の遺族・関係者の心情や怒りを”どれだけ
十分に忖度する”ことができるか」ということが、「自らの”人間性”のレベル」
を評価する基準になるかもしれない。
飼い主に対して、「人権」ならぬ「犬権?」
を主張して譲らないこともある!?
こじろう
2009年12月04日
歓迎!「『無料化』見直し」
政府の国家戦略室が民主党マニフェスト主要政策の予算圧縮作業
を本格化させる中、ある意味で最も注目を浴び、また批判の矢面に
も立たされたといえる「高速道路無料化」が大幅見直し(予算削減)
されるという。
個人的には支持したい。理由としては(「財源の問題」は別として)
1.「休日割引制度」の導入(今年3月)以降、休日の高速道路の混雑
は目に見えて激しくなり、また事故件数は倍増しているが(11月23
日の「こじろう117」参照)、今後「無料化」されるとそれらに拍車が
かかることは明らかである。
2.「受益者負担の原則」という観点から疑問の余地がある。
3.「無料化反対」の世論が”大勢(たいせい)”を占めている。
などを挙げたい。
残る問題は民主党のマニフェストに”反する”という批判であるが、首相
自身も”世論”という強い「味方」をバックにして「国民の望まないものを
押しつけるのはいかがなものか」と、うまく”かわしている”?といったと
ころであろうか。
実際、先般の総選挙で民主党あるいはその候補者に投票した人の中で
この「無料化」そのものを本気で期待していた人、投票の決め手としてい
た人はあまりというかほとんどいないだろう。また”非”政権党時代に作ら
れ、中には”非”現実的と思わざるをえないものも散見されるマニフェスト
すべてが実現されるとも考えていないはずである。
ただし、とはいっても有権者との”公の約束”であるマニフェストが「ないが
しろ」にされていいということは決してなく、一連の過程の検証は厳正に求
められるべきである。
政策一つ一つの是非でなく、抽象論的に「公約違反」ということで”前”政権
与党(現野党)からの批判や追及が大いに予想される。しかし「マニフェスト」
という言葉が一般に認知され当然のように使われるようになったこの10年
足らずの期間」以前にあった「選挙公約」について、有権者の間でも”絵に描
いた餅”に近い認識があったことは否定できないと思われる。
極めて”低レベル”のやり取りになってしまうが、現政権与党としては首相の
”名言”?にもあるように『あなた方にはいわれたくない』といったところだろう。
自ら言葉は話せなくても、飼い主から「約束された
こと」は忠実に実行してほしいと思っている!?
こじろう
を本格化させる中、ある意味で最も注目を浴び、また批判の矢面に
も立たされたといえる「高速道路無料化」が大幅見直し(予算削減)
されるという。
個人的には支持したい。理由としては(「財源の問題」は別として)
1.「休日割引制度」の導入(今年3月)以降、休日の高速道路の混雑
は目に見えて激しくなり、また事故件数は倍増しているが(11月23
日の「こじろう117」参照)、今後「無料化」されるとそれらに拍車が
かかることは明らかである。
2.「受益者負担の原則」という観点から疑問の余地がある。
3.「無料化反対」の世論が”大勢(たいせい)”を占めている。
などを挙げたい。
残る問題は民主党のマニフェストに”反する”という批判であるが、首相
自身も”世論”という強い「味方」をバックにして「国民の望まないものを
押しつけるのはいかがなものか」と、うまく”かわしている”?といったと
ころであろうか。
実際、先般の総選挙で民主党あるいはその候補者に投票した人の中で
この「無料化」そのものを本気で期待していた人、投票の決め手としてい
た人はあまりというかほとんどいないだろう。また”非”政権党時代に作ら
れ、中には”非”現実的と思わざるをえないものも散見されるマニフェスト
すべてが実現されるとも考えていないはずである。
ただし、とはいっても有権者との”公の約束”であるマニフェストが「ないが
しろ」にされていいということは決してなく、一連の過程の検証は厳正に求
められるべきである。
政策一つ一つの是非でなく、抽象論的に「公約違反」ということで”前”政権
与党(現野党)からの批判や追及が大いに予想される。しかし「マニフェスト」
という言葉が一般に認知され当然のように使われるようになったこの10年
足らずの期間」以前にあった「選挙公約」について、有権者の間でも”絵に描
いた餅”に近い認識があったことは否定できないと思われる。
極めて”低レベル”のやり取りになってしまうが、現政権与党としては首相の
”名言”?にもあるように『あなた方にはいわれたくない』といったところだろう。
自ら言葉は話せなくても、飼い主から「約束された
こと」は忠実に実行してほしいと思っている!?
こじろう
2009年12月03日
「住居侵入罪」VS「表現の自由」
先般、最高裁で一つの有罪判決が確定した。政党のビラを配るために
あるマンションに無断で立ち入ったとして、一人の僧侶が「住居侵入罪」
に問われた事件である。判決では「表現の自由にかかわる活動」よりも
「住民の私生活の平穏」を重視したということに対し、各紙の社説等で一
斉に解説・論評がなされていた。
その事件においては被告が「具体的危害」を加えたわけではなく、オート
ロックのないマンションに10分ほど立ち入って「各戸のドアポスト」に政党
のビラを「入れただけ」である。にもかかわらず現行犯逮捕されたのち、3
週間以上も身柄を拘束されたという。
このことに対して「捜査当局の『行き過ぎ』の感は否めないし、今後民間の
集合住宅へのビラ配りが厳しく制限されることにより、憲法に保障された
『表現の自由』の制限につながるだろう」と指摘する某地方紙社説の論調
も十分理解できる。つまりこのような取り締まりや捜査のあり方、および判
決によって表現の自由にかかわる活動が萎縮してしまうことへの強い懸念
である。
しかし、判決(罰金刑)そのものの妥当性や長期の身柄拘束などの問題
はともかくとしても、やはり大きなポイントの一つは「住居への”無断”立ち
入り」ということであり、そのことについては決して看過することはできない、
と個人的には考えたい。
というのも昨今、本来「外より安全なはず」の住居およびその周辺で凶悪
な犯罪に巻き込まれる事件が多発しているからである。表向き「表現の自
由」を盾にして住居内に立ち入られた後に、それが犯罪の「隠れ蓑」に使
われないという保障はないのである。
さらに今回立ち入った場所がたとえ集合住宅の「共用部分」であったとして
も、分譲マンションにとってはそれもやはり完全に「住民の私的な敷地内」で
あり、戸建て住宅の場合には無断で敷地の庭に入り込まれたのと同じ感覚、
といってもそう外れてはいまい。実際居住している住人からすれば、無断で
入ってくる人間が本当に純粋な「表現の自由」を行使しているかはわからない
し、何かあってからでは取り返しがつかない場合もある。
「自由」と「その制限」との闘いは、歴史的に見ても常に繰り返されてきたこ
とであるが、今回の件はそのテーマをさらに超えたところにあり、我が国の
慢性的ともいえる社会不安を大きく反映しているものだとも言えよう。
「番犬」として住居に立ち入るすべての人を(飼い主でさえも)
厳重に警戒する!? こじろう
あるマンションに無断で立ち入ったとして、一人の僧侶が「住居侵入罪」
に問われた事件である。判決では「表現の自由にかかわる活動」よりも
「住民の私生活の平穏」を重視したということに対し、各紙の社説等で一
斉に解説・論評がなされていた。
その事件においては被告が「具体的危害」を加えたわけではなく、オート
ロックのないマンションに10分ほど立ち入って「各戸のドアポスト」に政党
のビラを「入れただけ」である。にもかかわらず現行犯逮捕されたのち、3
週間以上も身柄を拘束されたという。
このことに対して「捜査当局の『行き過ぎ』の感は否めないし、今後民間の
集合住宅へのビラ配りが厳しく制限されることにより、憲法に保障された
『表現の自由』の制限につながるだろう」と指摘する某地方紙社説の論調
も十分理解できる。つまりこのような取り締まりや捜査のあり方、および判
決によって表現の自由にかかわる活動が萎縮してしまうことへの強い懸念
である。
しかし、判決(罰金刑)そのものの妥当性や長期の身柄拘束などの問題
はともかくとしても、やはり大きなポイントの一つは「住居への”無断”立ち
入り」ということであり、そのことについては決して看過することはできない、
と個人的には考えたい。
というのも昨今、本来「外より安全なはず」の住居およびその周辺で凶悪
な犯罪に巻き込まれる事件が多発しているからである。表向き「表現の自
由」を盾にして住居内に立ち入られた後に、それが犯罪の「隠れ蓑」に使
われないという保障はないのである。
さらに今回立ち入った場所がたとえ集合住宅の「共用部分」であったとして
も、分譲マンションにとってはそれもやはり完全に「住民の私的な敷地内」で
あり、戸建て住宅の場合には無断で敷地の庭に入り込まれたのと同じ感覚、
といってもそう外れてはいまい。実際居住している住人からすれば、無断で
入ってくる人間が本当に純粋な「表現の自由」を行使しているかはわからない
し、何かあってからでは取り返しがつかない場合もある。
「自由」と「その制限」との闘いは、歴史的に見ても常に繰り返されてきたこ
とであるが、今回の件はそのテーマをさらに超えたところにあり、我が国の
慢性的ともいえる社会不安を大きく反映しているものだとも言えよう。
「番犬」として住居に立ち入るすべての人を(飼い主でさえも)
厳重に警戒する!? こじろう
2009年12月02日
『新チャンピオン』 に贈る・・・
その昔、白黒テレビすら一般家庭に普及していないような時代にあって
「横綱・大鵬」 は誰もが (相撲に興味がない人も含めて) 知っている
国民的ヒーローであり、尊敬される存在であったと記憶している。力士
としての “圧倒的な強さ” もさることながら、その背景に 「横綱」 つ
まり頂点に立つ者としての 「品位」 と 「風格」を備えていたからに違
いない。
また同じころ、いわゆる 「アンチG」 を自称した人たちにとって、幾度
となく打ちのめされて “悔しい思い” をさせられた 「O・N」 について
も 「大スター」 の称号にふさわしい 「品格」 があったことは率直に
認めざるをえない。
スポーツにせよ芸術にせよ、斯界でその道を極めて頂点に立つような人
物には 「変わり者」 や、 「△△ (専門) バカ」 といわれる人も多い
(失礼!) が、そういう人たちは “本業の場面” でなくその他の 「公
の場」 で目にしても、それなりの 「品位」 とか 「風格」 を備えている
(あるいは徐々に身についていく) ことが一般的であると感じる。だか
らその人のファンであろうとなかろうと、見ている側もそういうものをあた
りまえと考え、それこそが 「安心して」 見ていられる所以でもあろう。
(前置きが長くなってしまい恐縮であるが) 先日ボクシングのライト級で、
某世界タイトルマッチが行われ新チャンピオン (K田興起) が誕生し
た。われわれ素人には想像もつかないような厳しく過酷なトレーニング
の成果として手に入れた 「勲章」 そのものについては、ボクシングに
特段の興味のない自分でも称賛に値すると思う。しかし 「世界チャン
ピオン」 ともなれば (以前別の階級で既にチャンピオンになっている
のでなおさらだが) まだ23歳という年齢を考慮しても、単なる 「ボク
シングの実力だけ」では、世間で通用しないことは明白である。
まだ何もわからない子どもの頃から、某テレビ放送網などに 「取り上
げられ」 「持ち上げられ」 「徹底的に利用され」 てきた末に、年齢相
応の “言葉遣い” や “目上の人たちに対する態度の取り方” を身
につけることができなかったこと (それらすら格好の 「パフォーマン
ス」 として利用されてきた”フシ”もある) は本人にも責任がないわけ
ではないが、周りにいた大人たち (父親・もち上げたマスコミ、特に某
放送網関係者) の責任は極めて大きかったといえよう。その点につい
ては心底 「同情」 せざるをえない部分でもある。
今回の勝利に新チャンピオン自身も 「これでやっと実力が認められた」
とインタビューでコメントしているようだが、真の 「世界チャンピオン」 と
して今後全世界から認知され支持されていくためには、本業においてさ
らなる精進を重ねていくのはもちろんのこと、 「頂点」 に立つ者として
の 「品位」 と 「風格」 を身につけていくことが急務であろう。そのため
にはまず、以前のように 「公の場」 において 「周囲を不快にさせるよ
うな “失礼な言葉遣い” 」 や、 「対戦相手を ”罵倒するやりたい放
題” 」 さらには 「人を食ったような “生意気な態度” 」 を全面的に
なくすべきである、と個人的には考える ( 「そういうところこそ好きだ」
というファンには申し訳ないが)。
もっとも2年前に 「一家」 で引き起こした? 「世紀の “大反則” タ
イトルマッチ」 での敗北 (本人が負けたわけではない) 」 以降は、
ある種の社会的制裁を受けたこともあってか、 「だいぶ態度も変わっ
てきた」 という評価もあるので、ここはあえて 「全面的」 にというと
ころにこだわりたい。
これから数多くの 「防衛」 を果たすとともに上記のような態度が 「完
全に改まった」 ときに初めて 「後世に名を残し歴史にその名を刻め
るような」 真の 「世界チャンピオン」 になれるはずである。
「飼われている犬」 としての 「品格」 とは何なのか?
なのか、と日夜自らに問いかけている!? こじろう
「横綱・大鵬」 は誰もが (相撲に興味がない人も含めて) 知っている
国民的ヒーローであり、尊敬される存在であったと記憶している。力士
としての “圧倒的な強さ” もさることながら、その背景に 「横綱」 つ
まり頂点に立つ者としての 「品位」 と 「風格」を備えていたからに違
いない。
また同じころ、いわゆる 「アンチG」 を自称した人たちにとって、幾度
となく打ちのめされて “悔しい思い” をさせられた 「O・N」 について
も 「大スター」 の称号にふさわしい 「品格」 があったことは率直に
認めざるをえない。
スポーツにせよ芸術にせよ、斯界でその道を極めて頂点に立つような人
物には 「変わり者」 や、 「△△ (専門) バカ」 といわれる人も多い
(失礼!) が、そういう人たちは “本業の場面” でなくその他の 「公
の場」 で目にしても、それなりの 「品位」 とか 「風格」 を備えている
(あるいは徐々に身についていく) ことが一般的であると感じる。だか
らその人のファンであろうとなかろうと、見ている側もそういうものをあた
りまえと考え、それこそが 「安心して」 見ていられる所以でもあろう。
(前置きが長くなってしまい恐縮であるが) 先日ボクシングのライト級で、
某世界タイトルマッチが行われ新チャンピオン (K田興起) が誕生し
た。われわれ素人には想像もつかないような厳しく過酷なトレーニング
の成果として手に入れた 「勲章」 そのものについては、ボクシングに
特段の興味のない自分でも称賛に値すると思う。しかし 「世界チャン
ピオン」 ともなれば (以前別の階級で既にチャンピオンになっている
のでなおさらだが) まだ23歳という年齢を考慮しても、単なる 「ボク
シングの実力だけ」では、世間で通用しないことは明白である。
まだ何もわからない子どもの頃から、某テレビ放送網などに 「取り上
げられ」 「持ち上げられ」 「徹底的に利用され」 てきた末に、年齢相
応の “言葉遣い” や “目上の人たちに対する態度の取り方” を身
につけることができなかったこと (それらすら格好の 「パフォーマン
ス」 として利用されてきた”フシ”もある) は本人にも責任がないわけ
ではないが、周りにいた大人たち (父親・もち上げたマスコミ、特に某
放送網関係者) の責任は極めて大きかったといえよう。その点につい
ては心底 「同情」 せざるをえない部分でもある。
今回の勝利に新チャンピオン自身も 「これでやっと実力が認められた」
とインタビューでコメントしているようだが、真の 「世界チャンピオン」 と
して今後全世界から認知され支持されていくためには、本業においてさ
らなる精進を重ねていくのはもちろんのこと、 「頂点」 に立つ者として
の 「品位」 と 「風格」 を身につけていくことが急務であろう。そのため
にはまず、以前のように 「公の場」 において 「周囲を不快にさせるよ
うな “失礼な言葉遣い” 」 や、 「対戦相手を ”罵倒するやりたい放
題” 」 さらには 「人を食ったような “生意気な態度” 」 を全面的に
なくすべきである、と個人的には考える ( 「そういうところこそ好きだ」
というファンには申し訳ないが)。
もっとも2年前に 「一家」 で引き起こした? 「世紀の “大反則” タ
イトルマッチ」 での敗北 (本人が負けたわけではない) 」 以降は、
ある種の社会的制裁を受けたこともあってか、 「だいぶ態度も変わっ
てきた」 という評価もあるので、ここはあえて 「全面的」 にというと
ころにこだわりたい。
これから数多くの 「防衛」 を果たすとともに上記のような態度が 「完
全に改まった」 ときに初めて 「後世に名を残し歴史にその名を刻め
るような」 真の 「世界チャンピオン」 になれるはずである。
「飼われている犬」 としての 「品格」 とは何なのか?
なのか、と日夜自らに問いかけている!? こじろう