2010年12月01日

問題の 『本質』 はどこか???(その1)

世の中にあるさまざまな議論や賛否両論。それぞれが自らの立場で主張したり意見を述べる

こと自体は大いに結構である。しかし、ことの 「本質」 をしっかり見極めていないことで、その

内容がトンチンカンな方向に進んでしまうのは困りものである。

先日某サイトに、ある女性からの 「なぜ、どこへでも子どもを連れて行くの」 という疑問の声が

紹介されていたが、その概要は、


・・・・・・ちょっといい店で (たまには) リッチに買い物をしようと思うと、奇声をあげな

     がら店内を縦横無尽に走り回る子ども。

     そしてベビーカーを押しながら涼しい顔をして商品をみている母親。

     スーパーの服売り場や大衆的ショッピングモールならまだしも、なぜこんなとこ

     ろまで子どもを連れてくるの?

     モダンで品のいい店の雰囲気が台無しって感じでした。

     レストランなどでも明らかに子どもの存在がそぐわないような高級店 (マナー

     がきちんとしていないと恥ずかしいような店) にも堂々とベビーカーに乗るよう

     な年代の子どもを連れてますよね。

     そういうことのできる母親は、自分にまだ子どもがいない時代にやっていたこと

     をそのまましているだけだと思うのですが、自分が子持ちであることを自覚して

     服や装飾品の買いものはネットで済ませるとか、子どもが騒いでも平気な店に

     行くとか、食事はフードコートで我慢しようとか、そういう気持ちにならないもの

     でしょうか。

     子どもを連れていくときには分相応な行動をしてほしいと思います・・・・・・


というものである。

この 「疑問の声」 に対する “反応・見解” にどういうものがあるのかは、見なくてもある

程度まで容易に予測できる部分もあるが、概ね次のようなものに大別されるようだ。


1. 『かつて実際に “母親 (父親) ” として、小さな子どもを育てた経験がある人』

   によるもので、「近頃の母親 (父親) は、自分が楽しければそれでいいと考えて

   いる。以前 (自分たちが小さな子どもを育てていた頃) は子どもの世話を優先し、

   自分たちの楽しみは二の次、それ以下であったものだ」 という趣旨のもの。

2. 『小さな子どもを育てたことのない、これからもそのつもりがない人』 によるもので、

   「どうしてもそういうことを楽しみたければ、子どもなど育てなければよい。都合の

   よい時だけ、母 (父) 親面して優越感に浸りながら、周囲に迷惑をかけているの

   はおかしいのでは」 という趣旨のもの。

3. 『現に小さな子どもを育てている最中の母親 (父親)』 によるもので、「小さな子ど

   もがいれば、なんでもかんでも 『がまん』 しなくてはいけないのか。周囲がもっと

   理解してくれてもよいはず。誰でも子どものときは少なからず他人に迷惑をかけてい

   たはず。特に子どもを育てたこともない人からいろいろ言われる筋合いはない」 とい

   う趣旨のもの。

4. その他の 『傍観者』 によるもので、「店側から入店を禁じられないかぎりは、自由

   であり、とやかくいわれるいわれはないのでは」 「高級店に子どもを連れて入るのは

   論外。大衆店に行くべきだ」 という趣旨のもの。


先に述べたように、物事の見方や考え方というものは、その人がおかれている立場や環境に

よって大きく異なるのは当然である。「法を犯している、明らかに公序良俗や公共の福祉に反

している」 という場合を除けば、どの主張や意見が正しいのか断定することができないことも

あれば、決めようにも決められない場合もあるだろう。

しかし、社会生活を営んでいく上ではある程度の暗黙の了解、それも一方的利益につながる

ものでなく、あくまでも客観・公正に納得できる (納得せざるをえない) 行動基準とかルール

の存在が必要とされるのはいうまでもない。

それでは今回のこの 「疑問の声」 につき、その本質をどうとらえ、どう考えるべきなのかは

「こじろう117」・・・問題の 『本質』 はどこか???(その2)・・・で考えることにしたい。


「飼い主と一緒に入れるところ」 には
限界があることを承知しているつも
りの!?          こじろう



  


Posted by こじろう117 at 00:03Comments(4)ペット