2010年07月06日
『傍観者』 でいられるか???(その2)
昨日の 「こじろう117」・・・『傍観者』 でいられるか???(その1)・・・の続きである。
今回のバスにおけるような出来事があった際、後になって客観的な立場でいろいろと論ずる
のは簡単であるが、「自分がその当事者 (その場に居合わせた一乗客) として『傍観者』
になることなく、即座に適切でスマートな行動がとれるかどうか」 というのにはなんともいえ
ない難しさがあると思われる。そのためには以下のようなことをクリアしていく必要があるか
らである。
1. 100円という金額自体に抵抗を感ずる人はいないにしても、実際他のそれなりの数
の乗客が注視しているなかで、「私が立て替えます」 とか 「私が両替します」 と
言い出すのはそれなりの勇気と覚悟が必要である。というのもこういう場合、相手の
人がその善意 (申し出) を必ずしも快く受け入れてくれるとは限らないからである。
「余計なことをしてくれるな」 といわれる可能性はかなり小さいとしても、もし固辞さ
れた場合はショックであるし、いろいろ気まずい思いをすることにもなってしまう。
2. 「立て替え」 を受け入れてくれた場合でも、相手がごく普通の常識をわきまえた人で
あれば (金額の大小はともかく) それをそのままにしておくことはまずあり得ない。
たまたま降車場所が同じであれば別として、そうでない (可能性の方が高いと思わ
れるが) 場合にはその精算などなかなかややこしいことになるのは必至である。
「いや、たかが100円程度のことなので結構です」 というのは簡単であるし、で
きれば極力そうしたいところであるが、それでは相手の人のプライドを傷つけること
になり、せっかくの善意が台無しになってしまう可能性もあるのだ。それでは 「ぜ
ひ、ご住所とお名前をお教えください」 などといわれるのも 「100円程度のこ
ことでそんな」 と気が引けてしまい、そこにしばらくはまたやっかいなやり取りが
生じてしまうだろう。また何よりかなり照れくさいことでもある。
3. 「運転手の立場」 の考慮も必要である。今回の件で運転手のとった姿勢、態度に対し
「少々冷たいのではないか」 と非難するのは簡単だが、それはいかにも早計という
ものである。その運転手としてはバス会社の一員としてその方針を忠実に遵守してい
るだけかもしれないし、また 「個人的に両替できるくらいの準備をしておくのが、
運転手としてのあるべき姿である」 というのもたやすいが、それも管理の問題など
いろいろと外部にはわからぬ事情があるかもしれない。運転手としてはもしかすると
「個人的には何とかしてあげたいのは山々である。でも会社の方針に一人逆らうこと
はできないし、他の乗客にいらぬ心配や迷惑をかけるわけにもいかない」 との葛藤
に苦しんでいるかもしれないのだ。
とすれば自分が出ていくことによって、 「その運転手の顔をつぶしてしまう」 ある
いは 「運転手にバツの悪い思いをさせてしまうかもしれない」 という可能性すら
考えなくてはならないだろう。
以上のほかにも、冷静に考えたときに、ことに (両替でなく) 「立て替え」 ともなれば、
そこにはさまざまな目に見えない障壁が立ちはだかるのである。
今回投稿された82歳の男性のように、ある意味人生を達観されているような方はともかく、
「『傍観者』 にならずにとっさに適切な行動がとれるか」 あるいは 「 『君子危うきに
近寄らず』 と 『傍観者』 を決め込むか」 の適切な選択をするにも、やはりそれなりの
“人生修行・修養” といったものがどうしても必要ということになるのであろうか。
飼い犬としての “修行や修養” とは何か、
常に自問している!? こじろう
今回のバスにおけるような出来事があった際、後になって客観的な立場でいろいろと論ずる
のは簡単であるが、「自分がその当事者 (その場に居合わせた一乗客) として『傍観者』
になることなく、即座に適切でスマートな行動がとれるかどうか」 というのにはなんともいえ
ない難しさがあると思われる。そのためには以下のようなことをクリアしていく必要があるか
らである。
1. 100円という金額自体に抵抗を感ずる人はいないにしても、実際他のそれなりの数
の乗客が注視しているなかで、「私が立て替えます」 とか 「私が両替します」 と
言い出すのはそれなりの勇気と覚悟が必要である。というのもこういう場合、相手の
人がその善意 (申し出) を必ずしも快く受け入れてくれるとは限らないからである。
「余計なことをしてくれるな」 といわれる可能性はかなり小さいとしても、もし固辞さ
れた場合はショックであるし、いろいろ気まずい思いをすることにもなってしまう。
2. 「立て替え」 を受け入れてくれた場合でも、相手がごく普通の常識をわきまえた人で
あれば (金額の大小はともかく) それをそのままにしておくことはまずあり得ない。
たまたま降車場所が同じであれば別として、そうでない (可能性の方が高いと思わ
れるが) 場合にはその精算などなかなかややこしいことになるのは必至である。
「いや、たかが100円程度のことなので結構です」 というのは簡単であるし、で
きれば極力そうしたいところであるが、それでは相手の人のプライドを傷つけること
になり、せっかくの善意が台無しになってしまう可能性もあるのだ。それでは 「ぜ
ひ、ご住所とお名前をお教えください」 などといわれるのも 「100円程度のこ
ことでそんな」 と気が引けてしまい、そこにしばらくはまたやっかいなやり取りが
生じてしまうだろう。また何よりかなり照れくさいことでもある。
3. 「運転手の立場」 の考慮も必要である。今回の件で運転手のとった姿勢、態度に対し
「少々冷たいのではないか」 と非難するのは簡単だが、それはいかにも早計という
ものである。その運転手としてはバス会社の一員としてその方針を忠実に遵守してい
るだけかもしれないし、また 「個人的に両替できるくらいの準備をしておくのが、
運転手としてのあるべき姿である」 というのもたやすいが、それも管理の問題など
いろいろと外部にはわからぬ事情があるかもしれない。運転手としてはもしかすると
「個人的には何とかしてあげたいのは山々である。でも会社の方針に一人逆らうこと
はできないし、他の乗客にいらぬ心配や迷惑をかけるわけにもいかない」 との葛藤
に苦しんでいるかもしれないのだ。
とすれば自分が出ていくことによって、 「その運転手の顔をつぶしてしまう」 ある
いは 「運転手にバツの悪い思いをさせてしまうかもしれない」 という可能性すら
考えなくてはならないだろう。
以上のほかにも、冷静に考えたときに、ことに (両替でなく) 「立て替え」 ともなれば、
そこにはさまざまな目に見えない障壁が立ちはだかるのである。
今回投稿された82歳の男性のように、ある意味人生を達観されているような方はともかく、
「『傍観者』 にならずにとっさに適切な行動がとれるか」 あるいは 「 『君子危うきに
近寄らず』 と 『傍観者』 を決め込むか」 の適切な選択をするにも、やはりそれなりの
“人生修行・修養” といったものがどうしても必要ということになるのであろうか。
飼い犬としての “修行や修養” とは何か、
常に自問している!? こじろう