2009年12月01日
『密室』からの脱出!!!
枝葉末節的な諸問題はそれなりに指摘されながらも、「行政刷新会議」
の『事業仕分け』が国民の高い支持を得て先日その役目を終えた。
「劇場型」的な面が先行して注目され、その点においても賛否両論を呼
ぶことになったことは確かである。(11月19日の『こじろう117』を参照)
「政治」であれ「経営」の場面であれ、そこで行われる会議・打合せ・論議
すべてを”公開”すればいいというわけではない。テーマや内容によっては
“非公開“に「した方がよい」もの、あるいは積極的に「しなければならない」
ものもたくさんあるだろう。
しかし国家の財源は基本的に“国民の血税”によるものであり、今まではそ
の使い途(予算)についての論議が「主役である国民」を締め出した、いわば
『密室』で行われていたわけで、それを主役の目に触れる(見る・見ないは自
由であるが)ところ、すなわち“公開”で行われたことはある意味「あたりまえ」
のことであるにしても、その意義は極めて大きいといえよう。
N県では10年ほど前に県政の「歴史的転換」があり、それから現県政に引き
継がれるまでの評価はプラス・マイナスまさにさまざまで、今ここで言及する
つもりはない。ただしその時を契機として、それまで「まったく」あるいは「ほと
んど」興味をもたなかった県民の多くが県政に目を向けるようになった”功績”
については異論をはさむ余地はほとんどないだろう。それもたとえ「パフォー
マンス的」と揶揄されはしても”開かれた県政”を標榜したことに起因する部分
が小さくなかったと思われる。
政治に対する「関心のうすさ」という点ではかつてのわれわれの世代(特に自
分自身)も偉そうなことは言えず、その証拠に上の世代からは当時「今の若い
連中は自分のことばかり考えやがって・・・」などと愚痴をいわれていたもので
ある。近い将来世の中の主役になる「若者世代」に同じ轍を踏むことなく、政治
などにより関心をもってもらうためにも、より「開かれた」「目に見える」「親しみや
すい」社会にしていくことが必須であろう。
自分の日常の姿を”公開”されていることに
複雑な思いを隠せない!? こじろう
の『事業仕分け』が国民の高い支持を得て先日その役目を終えた。
「劇場型」的な面が先行して注目され、その点においても賛否両論を呼
ぶことになったことは確かである。(11月19日の『こじろう117』を参照)
「政治」であれ「経営」の場面であれ、そこで行われる会議・打合せ・論議
すべてを”公開”すればいいというわけではない。テーマや内容によっては
“非公開“に「した方がよい」もの、あるいは積極的に「しなければならない」
ものもたくさんあるだろう。
しかし国家の財源は基本的に“国民の血税”によるものであり、今まではそ
の使い途(予算)についての論議が「主役である国民」を締め出した、いわば
『密室』で行われていたわけで、それを主役の目に触れる(見る・見ないは自
由であるが)ところ、すなわち“公開”で行われたことはある意味「あたりまえ」
のことであるにしても、その意義は極めて大きいといえよう。
N県では10年ほど前に県政の「歴史的転換」があり、それから現県政に引き
継がれるまでの評価はプラス・マイナスまさにさまざまで、今ここで言及する
つもりはない。ただしその時を契機として、それまで「まったく」あるいは「ほと
んど」興味をもたなかった県民の多くが県政に目を向けるようになった”功績”
については異論をはさむ余地はほとんどないだろう。それもたとえ「パフォー
マンス的」と揶揄されはしても”開かれた県政”を標榜したことに起因する部分
が小さくなかったと思われる。
政治に対する「関心のうすさ」という点ではかつてのわれわれの世代(特に自
分自身)も偉そうなことは言えず、その証拠に上の世代からは当時「今の若い
連中は自分のことばかり考えやがって・・・」などと愚痴をいわれていたもので
ある。近い将来世の中の主役になる「若者世代」に同じ轍を踏むことなく、政治
などにより関心をもってもらうためにも、より「開かれた」「目に見える」「親しみや
すい」社会にしていくことが必須であろう。
自分の日常の姿を”公開”されていることに
複雑な思いを隠せない!? こじろう