枝葉末節的な諸問題はそれなりに指摘されながらも、「行政刷新会議」
の『事業仕分け』が国民の高い支持を得て先日その役目を終えた。
「劇場型」的な面が先行して注目され、その点においても賛否両論を呼
ぶことになったことは確かである。(11月19日の『こじろう117』を参照)
「政治」であれ「経営」の場面であれ、そこで行われる会議・打合せ・論議
すべてを”公開”すればいいというわけではない。テーマや内容によっては
“非公開“に「した方がよい」もの、あるいは積極的に「しなければならない」
ものもたくさんあるだろう。
しかし国家の財源は基本的に“国民の血税”によるものであり、今まではそ
の使い途(予算)についての論議が「主役である国民」を締め出した、いわば
『密室』で行われていたわけで、それを主役の目に触れる(見る・見ないは自
由であるが)ところ、すなわち“公開”で行われたことはある意味「あたりまえ」
のことであるにしても、その意義は極めて大きいといえよう。
N県では10年ほど前に県政の「歴史的転換」があり、それから現県政に引き
継がれるまでの評価はプラス・マイナスまさにさまざまで、今ここで言及する
つもりはない。ただしその時を契機として、それまで「まったく」あるいは「ほと
んど」興味をもたなかった県民の多くが県政に目を向けるようになった”功績”
については異論をはさむ余地はほとんどないだろう。それもたとえ「パフォー
マンス的」と揶揄されはしても”開かれた県政”を標榜したことに起因する部分
が小さくなかったと思われる。
政治に対する「関心のうすさ」という点ではかつてのわれわれの世代(特に自
分自身)も偉そうなことは言えず、その証拠に上の世代からは当時「今の若い
連中は自分のことばかり考えやがって・・・」などと愚痴をいわれていたもので
ある。近い将来世の中の主役になる「若者世代」に同じ轍を踏むことなく、政治
などにより関心をもってもらうためにも、より「開かれた」「目に見える」「親しみや
すい」社会にしていくことが必須であろう。
自分の日常の姿を”公開”されていることに
複雑な思いを隠せない!? こじろう